Résonances

東京大学大学院総合文化研究科フランス語系
オンラインジャーナル
Résonances 第14号 | 2023年11月発行
研究ノート

書き直された〈自伝〉ジュリア・クリステヴァのメモワールと小説をめぐって

ジュリア・クリステヴァ(1941-)は、記号学の問い直し、ミハイル・バフチンの紹介、「間テクスト性」の提唱などによって構造主義パラダイムに新展開をもたらし、1960年代後半のフランスの知的ムーヴメントを先導した思想家のひとりである。70年代後半から80年代にかけては精神分析への関心を深め、母やメランコリーといったテーマを論じたことでも知られる。その彼女が1990年に初めての小説『サムライたち』を発表したとき、論壇は驚きをもって受けとめ、申し合わせたように同じことをたずねた。「なぜ小説を?」「どうしてフィクションを?」と。

シモーヌ・ド・ボーヴォワールの『レ・マンダラン』(1954)に目くばせを送りつつ書かれたというこの作品は、思想と政治に燃えるパリを主な舞台に、知識人の生きざまと交流を描いた群像劇である。東欧の国から一文無しでオルリー空港に降り立ち、その知性をぞんぶんに開花させてフランス思想界に地位を築いていく主人公オルガがクリステヴァその人であり、オルガと恋に落ちる若き俊英エルヴェがフィリップ・ソレルスであることはだれの目にも明らかである。

『レ・マンダラン』がゴンクール賞を受けた後にほとんどすべてのインタビューを拒否したというボーヴォワールや、『バルトによるバルト』(1975)の発表に際して「バルトの三乗」と題する謎めいた「書評」をものしたロラン・バルトにくらべれば、クリステヴァはみずからの自伝的作品についてきわめて多弁かつ率直に語ったといえるだろう。理論を離れてフィクションに移行したさまざまな理由、舞台となった「おおいなる時代」への思い入れ、『サムライたち』というタイトルに込められた意味、さらには登場人物のモデルがだれであるかにいたるまで、彼女は惜しげもなく私たちに話した[1]。いわば、「実話小説=鍵つき小説(roman à clef)」の解読の鍵をみずから読者に手渡すかのようなこの身ぶりを、フィリップ・ルジュンヌのいう「自伝契約」の一種[2]として考えることができるかもしれないが、まずはこの小説の原型になっていると思われる短い回想録に言及することからはじめたい。

『サムライたち』の7年前、1983年にクリステヴァは『テル・ケル』の後続誌『ランフィニ』創刊号に「メモワール」という簡素な題をつけた文章を寄せる[3]。二十代半ばでフランスに渡って以来の半生と著作活動を、批評を交えながら振りかえる、わずか20頁ほどの回想録である。そのなかにはのちに400頁を超える長編小説『サムライたち』で描かれる主要なエピソードがすでに多く揃っているが、このテクストは2010年前後にいたって始められるクリステヴァの小説の包括的研究においてはほとんど言及されることがない[4]。回想録は小説ではないからだろう。しかし、あとで述べるように、その後しばらくクリステヴァは自伝(伝記)的エクリチュールと小説のあいだを揺れ動くこととなるのであり、その逡巡を観察することで、彼女にとって生を語ることが意味するものの片鱗をつかむことができるのではないかと思われるのだ。

さて、『サムライたち』刊行時のインタビューでの得々とした様子とは対照的に、「メモワール」のクリステヴァはみずからの経験を書くことについて少なからず構えた態度を見せる。自分じしんは「よい証人」にはなれず、歴史を作ることは「不可能でないにしても場違いな任務」なのだという彼女は、それでもある独特のやり方によって自己を語り始める。それは、「わたしたちの自伝」という方法である[5]

「記録文書」や「年代記」を構成するよりもむしろ、もっとほかの疑問が、〈意味〉を〈フィクション〉にまでひらくよう、わたしたちを駆り立てるのだ。「わたしたち」と言ったのは、このわずか数年のあいだに、まだほとんど眼には見えないがあらゆる文化の空間に波及するような、深い動揺がうみだされたようにわたしには思われるからだ。したがってここに続くものは、わたしたちの「自伝」(« autobiographie » du nous)となるだろう……[6]

クリステヴァを、あるいは「わたしたち」を、生を語ることへと駆り立てたものとはなんだろうか。そのころ、『テル・ケル』解散(1982)、時代を彩った思想家たちのさまざまな意味での死(バルトが80年、ラカンが81年に亡くなり、またアルチュセールは妻を扼殺し81年に「心身喪失のため責任能力なし」との決定が下された)といった大きな出来事が折り重なり、組織的にも思想的にもすでに陰りをみせていた偉大な時代の決定的な終わりを、彼女や周囲の人びとが感じていたのはたしかである。また、ソレルスが『女たち』(1983)を、ナタリー・サロートが『子供時代』(1983)を発表するなど、これまで伝統的な文学とはかけ離れた作品で知られていた作家たちがつぎつぎに自伝的作品を著した時期でもあった。もしくは単純にNew York Literary Forum誌の「女性の自伝作家」特集に自伝を寄稿してほしいとの依頼に応じた[7]にすぎないのかもしれないが、いずれにしても、自己を語るということについて彼女はそれなりに方法的に臨んだのである。クリステヴァはマラルメの「続誦」をエピグラフにひき、その冒頭にある「イペルボル(hyperbole)」(修辞学用語では「誇張法」、数学用語では「双曲線」、語源的には「彼方に投げられたもの」を意味する)ということばを、「わたしたち」にむすびつける。個人的な内省の場であるはずの自伝に、一人称複数形を用いることはたしかに大げさイペルポリックにも思えるが、彼女はこの「わたしたち」が弧を描くようにして彼方へと向かい、喪失の時代を乗り越える足がかりとなることを期待していた。

「異邦の女」クリステヴァにとって、「わたしたち」とは政治的・社会的な同質性よりもむしろある種の文化的な場を意味していた。故郷ブルガリアでフランス語による親仏教育を受け、ヴォルテール、ヴィクトール・ユゴー、アナトール・フランスといった作家たちを語学教材としてだけではなく道徳の手引きとしても役立てていたクリステヴァは、24歳での渡仏後、すんなりとパリの知的風土に入っていくことができたのだった。それは彼女によれば「警戒心が強くよそよそしいが、有効で信頼のできる歓待」[8]のおかげだった。そこでは、外国人ぎらい、反フェミニズム、反ユダヤ主義がみられるにせよ、「流浪、異質なもの、接ぎ木、異種交配」等に対する「慎重ではあるが度量の大きい、寡黙ではあるが結局のところ開かれた」好奇心が、知的革新を可能にしていた。こうした環境で、『テル・ケル』の扱う学問分野の多様さや主張の違い、宗教教育の違いにもかかわらず、たとえばバタイユ、サド、アルトー、ジョイスの名は、ありのままテル・ケルの「わたしたち」の確かな手がかりとして在りつづけた。「わたしたち」とは、第一に固有名をわかちもつ文化的・知的な共同体だったといえる。「よい証人」にはなれないとの表明にもかかわらず、どちらかと言えば冷静な時代評・知識人論的な色合いの強いこの回想録では、こうした良き知的環境への回顧と、その行く末の考察が主調となっている。

いっぽう、クリステヴァによる一人称複数形の使用は、「わたし」の探求というすぐれて自伝的な企図によってもまた動機づけられていた。彼女は、「「わたし」が集団のなかにみずからを預けることによって失ってしまったもの」を、「「わたしたち」のさまざまな変容のなかに、部分的に見つけ出す」[9]ことを試みる。彼女によれば「わたしたち」の自伝を書くことは、「「わたし」の真実への情熱を、その真実が部分的にしか共有されないという絶対的な論理的必然性と混ぜあわせる」[10]ことであった。つまり、「「わたしたち」の自伝」というこの表現はクリステヴァにとって、「わたし」についてほんの一部しか知ることができず、また他者とわけあうこともできないということの、ある種の否定誇張法にもなっているのである。だから彼女からみれば「この大げさな「わたしたち」(ce « nous » hyperbolique)は[…]、「わたし」の一部分でしかない」[11]。クリステヴァにとって自伝とは、こうした否定的な仕方ではじめて書き始めることができるものだった。

異質なものが刺戟しあう知的交流の場としての「わたしたち」を存続させる試み、そして集団の歴史を書くことによって「わたし」を見いだそうとする試み、「わたしたち」のイペルボリックな機能に賭けようとするこれらの企図は果たして実現されたのだろうか。行方を追ってみると、1965年の冬にパリへやってきた彼女は、68年5月の革命に没頭し、共産党と関わりをもち、また別の文化世界を求めて中国を旅行するが、やがてそれらのすべてに失望しあらゆる「政治との訣別」へと行き着く。旅の終わりに、彼女らの思想が受け容れられはじめた新大陸アメリカをまなざしつつ、未来の世代に思いを馳せ、回想録は閉じられる――「わたしたちの子どもたちが、このダビデ[ユダヤ-キリスト教的ヨーロッパ]に、彼の過ちと行き詰まりに加わってくれることを、わたしは夢見る。〈観念〉、〈ロゴス〉、〈形式〉、つまるところ古いヨーロッパに結びついたわれわれの迷妄によって武装して。これが夢想にすぎないとしても、この夢想にはきっと未来があると思いたい」[12]

少し奇妙な、閉塞感すら感じられる締めくくりである。数年後、回想録には鍵がかけられ、三組の男女の物語が交叉する長編小説として書き直されることとなった。『サムライたち』では、主人公はもはや「わたしたち」ではなく、登場人物にはそれぞれ架空の名前が与えられる。全体として恋愛小説、一代記、大衆文学といった様相を帯び、特定の時代を具体的に考察するような批評的性格はずいぶん遠ざけられたように見える。しかし少なからずその時代に関心を寄せ、バルト、ラカン、バンヴェニストといった固有名を共有する読者という「わたしたち」には、それぞれの登場人物がだれをさしているのかがわかるし、何の話をしているのかもわかるだろう。クリステヴァの「わたしたち」の具体的指示対象は『サムライたち』の登場人物に移しかえられたが、彼女がこの人称代名詞そのものに見いだした機能のほうは、物語に意味を与える読者の「わたしたち」に託されたのではないだろうか。じっさい、あらゆる自伝的エクリチュールは、読者に承認されて真に完成するのだ。その意味では、クリステヴァの饒舌は単なるおしゃべりではなく、来たるべき「わたしたち」への呼びかけだったともいえるだろう。

ふたたびさまざまな疑問が浮かんでくる。そのことによって「わたしたち」はたんなる事情通の集団であることを超えて、イペルボリックなものになりえたのだろうか? クリステヴァが「わたしたち」のなかに見いだしたかった「わたし」はどこに行ったのだろうか? そもそもなぜ小説でなければならなかったのだろうか? これらの問いに答えるのは、いまの段階では先延ばしにしたい。というのも、その後もクリステヴァは小説と伝記、あるいはフィクションとエッセイのあいだ――果たしてその狭間に〈自伝〉が横たわっている、あるいは沈んでいるのだろうか――をさまよいつづけるからである。『サムライたち』の執筆中に母国ブルガリアの父を亡くし、そしてまもなく東欧の破局を目の当たりにしたクリステヴァは、やがてこれまで語ってこなかった故郷について語りはじめる。はじめは架空の都市を舞台にした寓意的な探偵小説として『老人と狼』(1991)が書かれ、次いでエッセイのかたちがとられた(「ソフィア」(1992)、「ブルガリア、わが苦しみ」(1995))。その後ふたたび小説に戻り、『老人と狼』の続編である『憑依』(1996)を発表する。この揺れ動きを見るかぎり、もしかすると、彼女じしんにも「なぜ小説か」ということはわかっていなかったのかもしれない。

Notes

  1. [1]

    たとえば以下のインタビュー録を参照。Julia Kristeva, Elisabeth Belorgey, « A propos des Samouraïs », L’Infini, no 30, Summer 1990, p. 56-66. Julia Kristeva, Suzanne Clark, and Kathleen Hulley, “An Interview with  Julia Kristeva: Cultural Strangeness and the Subject in Crisis” , Discourse, vol. 13, no. 1, 1990, p. 149-180. ジュリア・クリステヴァ「過ぎ去った時と来たるべき時のあいだで―ジュリア・クリステヴァインタビュー(1)」(聞き手 西川直子)西川直子・富田今日子訳、『季刊iichiko』第18号、1991年、104-116頁。

  2. [2]

     「自伝契約」は、フランスにおける自伝研究の泰斗であるフィリップ・ルジュンヌが『フランスの自伝』(1971)のなかではじめて提示した概念で、自伝の条件、すなわち作者と語り手と主人公の同一性を読者に対して保証する間主体的な言語行為をさす。ルジュンヌは『自伝契約』(1975)において『フランスの自伝』の議論を発展させ、自伝と小説が互いに関連しあって得られる立体的効果を「自伝空間」と名づける。ルジュンヌによれば、こうした空間を作り出すような作者の発言は間接的なかたちでの自伝契約である。

  3. [3]

    じっさいにはNew York Literary Forum誌の「女性の自伝作家」特集(1984)にあわせて書き下ろされたものだが、掲載されたのは『ランフィニ』が先である(フランス語版)。なお、英語版でのタイトルは “My Memory’s Hyperbole”となっている。

  4. [4]

    たとえばクリステヴァのフィクション研究の成果をまとめたBenigno Trigo編の論集(2013)においても、またクリステヴァの小説4篇と彼女の理論の関係を研究したSandrine Hopeの博士論文(2016)においても1983年のメモワールは取り上げられない。

  5. [5]

    Margaret Atackはこの「わたしたち」という表現についてボーヴォワールへの参照を指摘している。ボーヴォワールは自伝『或る戦後』(原題はLa force des choses)で『レ・マンダラン』について言及し、「私自身について語るためには、1944年に使われていた意味でのわたしたちについて語らなければならなかった」(強調原文)と述べている。じっさいクリステヴァは「メモワール」を伝記作家としてのボーヴォワールに対する言及からはじめており、『サムライたち』以前からすでに、ボーヴォワールのテクストはクリステヴァが自伝を書く際の重要な導きとなっていた。Margaret Atack, “The Silence of The Mandarins: Writing the Intellectual and May 68 in Les Samouraïs” Paragraph, 20(3)., 1997, p. 240-257. Simone de Beauvoir, La force des choses, vol. 1, Gallimard, 1963, p. 366. (シモーヌ・ド・ボーヴォワール『或る戦後 上』朝吹登水子・二宮フサ訳、1965年、284頁).

  6. [6]

    Julia Kristeva, « Mémoire », L’Infini, no 1, Winter 1983, p. 39. 強調は原文による。

  7. [7]

    註3を参照。なお、「メモワール」の冒頭および註にもNew York Literary Forum誌に自伝を寄稿しないかと提案されたとの記述がある。

  8. [8]

    art. cit., p. 42.

  9. [9]

    Ibid., p. 40.

  10. [10]

    Ibid., p. 39-40.

  11. [11]

    Ibid., p. 40.

  12. [12]

    Ibid., p. 54.

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稲田 紘子「書き直された〈自伝〉——ジュリア・クリステヴァのメモワールと小説をめぐって」 『Résonances』第14号、2023年、ページ、URL : https://resonances.jp/14/entre-memoire-et-roman/。(2024年11月21日閲覧)

執筆者

所属:表象文化論
留学・在学研究歴:なし