Résonances

東京大学大学院総合文化研究科フランス語系
オンラインジャーナル
Résonances 第13号 | 2022年10月発行
研究ノート

或る身体の詩学ミシェル・ド・セルトーの未完の構想をめぐって

1982年に出版された『神秘のものがたり』第1巻は、ミシェル・ド・セルトー(1925-1986)の主著として名高い。この集大成というべき書物において主題的に論じられるのは近世の神秘主義文献であり、十字架のヨハネやスュラン、シレジウスといったビッグネームの作品から、「未だアーカイヴの奥底に存在し続けている」[1]無名に近いイエズス会士たちの自伝的な「報告書(relation)」まで、取り上げられるテクストは多岐にわたる。あるときには神秘主義の歴史叙述、またあるときには神秘家の意志や欲望をめぐる哲学的思索、さらにはセルトー自身の自己言及的なパッセージといったように、書物は所々で見せる姿を変えている点も興味深い。

全9章からなる第1巻の終幕を飾るエピローグは「或る身体の詩学への序曲(ouverture à une poétique du corps)」と題されており、そこではカトリーヌ・ポッジの詩「祝詞アーヴェ」に分析が施される。同一の音素の反復(« mou / meu / mais / mé / moi / mon »、等々)や同一単位のシラブルの度重なる再登場に耳を澄ましながら、セルトーは、「読むことはできないが聞くことはできるもの(ce qui est audible mais non lisible)」[2]を探り当てようとする(そこで聴き取られるのは、「記憶(mémoire)」と「歴史(histoire)」の感応における「わたし(moi)」と「あなた(toi)」のデュオであるという)。しかしながら、セルトーが第2巻を書き上げぬまま亡くなってしまったため、「身体の詩学」という構想の内実は謎に包まれており、草稿などの関連資料は依然として未刊行である。そこで本稿は、『神秘のものがたり』におけるいくつかの記述を取り上げながら、セルトーの「身体」論の骨格を示し、そこから「身体の詩学」という未完の構想の基本的な方針を浮き彫りにすることを試みたい。

はじめに注目しておきたいのは、『神秘のものがたり』の初めに置かれている自己言及的なパッセージである。冒頭の叙述は以下のとおりである。

本書は、或る無能力の名のもとに自らを差し出している──自らが取り扱うものから追放されているのである。(神の)現前をめぐる(あるいは、現前についての)神秘家の言説にわたしが捧げているエクリチュールは、そこには属していないという地位にある。本書のエクリチュールはこうした喪から生まれている。ただしそれは、隔たれているという病と化してしまった、受け入れられない喪なのであり、おそらくは、16世紀においてすでに思考の隠れた原動力となっていた病であるメランコリアと類似したものだ。欠けているものこそが、ひとを書かせるのである。[3]

この本の出生の地は「受け入れられない喪(deuil inaccepté)」、すなわちメランコリーにあるという。或る喪失がエクリチュールを生むというテーゼは、本書の各所でパラフレーズされ反復されている。自らが取り上げている神秘家たち(が書いたもの)とは同じ場所にはいないと初めに告白する以上、神秘家の位置に自分のそれを素朴に重ね合わせたり、同一化をおこなうといったことをセルトーは自らに禁じている。別の角度から言い直せば、神秘主義文献の専門家というオフィシャルな立場にもかかわらず、自分こそがテクストをより熟知しているとはみなさないということだ。ただし、事態は少し混み入っている。というのも、セルトーが取り扱う作家たちもまた、不在──唯一者の不在──に苦しみ、そこからエクリチュールを生み出した者たちであったとされており、そこにセルトーは自らとの状況的な共鳴関係を読み取っているように思われるからである。つまりセルトーは、神秘家たちからの距離を明示するとともに、ある意味では神秘家たちと同じようなしかたで思考を展開させようとしている[4]

第1巻第3章「新たなる学知」の第1節では、こうした「不在」や「喪失」といったテーマが「身体」と結びつけられ、さらに広いパースペクティブのもとで展開される。そこでは、近世の神秘主義についての歴史叙述という書物全体のコンセプトを超えて、キリスト教という宗教的運動そのものの核心に身体の喪失が読み込まれる。セルトーは大胆にも以下のように主張する。

実際、キリスト教は、或る身体の喪失の上に創設された──イスラエルという「身体」、「国民」とその血統の喪失の上に重ねられた、イエスの身体の喪失の上に。たしかに、これは創設的な消失である。このことは、ユダヤの民に与えられている保証、すなわち彼らを生物学的、社会的な現実へと根付かせる保証に対して、キリスト教的経験を特徴づけるものである。つまり、選びによって他のさまざまな身体から区別され、場所を固定され、切り離された身体、歴史によって傷を負い、聖書の刻印を刻まれた一つの現前する身体に対比されるとき、浮かび上がる特徴である。キリスト教のことばパロールが「カトリック」(普遍的)かつ「ペンテコステ的」(霊的)な形態を取るのは、自らの民族的起源と継承権から切り離される、離脱という仕方においてである。[……]キリスト教の伝統においては、身体の原初的な剥奪が絶えず制度や言説を生み出しているのであり、それらはこの不在の効果であり代理なのだ──教会という身体、教義という身体、といったように。[5]

キリスト教を根本的に規定するのは、身体の喪失という事態にほかならない──これが『神秘のものがたり』全体のプロットを支えているヴィジョンである。ここでセルトーは、ユダヤ教の民の「身体」と対比する形でキリスト教的な「身体」の特殊性を浮かび上がらせている。もちろんセルトーは、ユダヤ教ないしイスラエルの民の歴史的経験には普遍性が欠けていると述べたいわけではない。そうではなく、両者の間では普遍性への通路がまったく異なっているのである。セルトーは、「キリスト教的経験」あるいは「キリスト教のことば」において、そうした普遍性への通路は「身体の喪失」、それもほかならぬ「イエスの身体の喪失(perte du corps de Jésus)」にあると考える。どういうことか。

第一に、引用文において大きな対立軸となっているのは、現前/不在、起源や系譜的な連続性による保証の有無である。イエスの歴史的身体は、残された者たちから失われた。このことは、「イエス゠キリストという出来事」[6]の意味への問いが歴史的な探究として形をとるとき、それは創始者の身体の不在に行き着かざるをえない、ということを意味する。この起源への到達の不可能性が、翻って、いかなる民族的言語的な境界をも超えて拡がってゆくことのできる運動──失われた「身体」を世界のうちに探し求める続ける「過剰さ(excès)」[7]──をキリスト教にもたらすのである。

だが、以上を指摘するだけでは、セルトーのテーゼの内実のうち、半分しかとらえたことにはならないだろう。上の引用文の直後で、セルトーは読者を「ヨハネによる福音書」に報告されている以下のエピソードへと送り返している。イエスの遺体が葬られた場に赴いたマグダラのマリアは、「墓から石が取りのけられてある」(20,1)のをみて、事態を弟子たちに伝えに行く。弟子たちは、墓から遺体が消えており、イエスの頭を包んでいた亜麻布以外なにも残されていなかったのを確認し、その場を去る。マグダラのマリアは空っぽの墓の外で悲嘆に打ちひしがれ、不意に現れた天使に「わたしの主が取り去られました」(20,13)と述べるが、そこに復活したキリストが姿を見せる──という場面である。

以上の「ヨハネによる福音書」の記述が「身体の喪失」の根幹にあるイメージであるとすれば、それはキリスト教的な普遍性といかなる関係にあるのだろうか。セルトーは、「ヨハネ福音書」へリファーする直前にこう述べている。

いかにしてことばパロールによって「身体をつくる(faire corps)」か。この問いは、[遂行することが]不可能な喪をめぐる、忘れえぬ別の問いを引き寄せる──「あなたはどこにいるの?」という問いを。この二つの問いが神秘家を突き動かすのである。[8]

「あなたはどこにいるの」とは、直接的には十字架のヨハネ「魂と天の花婿との間にかわされる歌」の詩行が念頭に置かれた言葉であるが、セルトーはそれをマグダラのマリアの言葉と織り交ぜている。つまりセルトーは、マグダラのマリア、『霊の賛歌』の詩文における花嫁、さらには十字架のヨハネをはじめとした数多くの神秘家の間に「身体の喪失」という共通の状況を読み取り、この根源的な喪失によって駆動される言語こそ、キリスト教的な普遍性を実現する形態の一つであると考えるのである。ここで、マグダラのマリアが「空っぽの墓」[9]の前で悲嘆にくれる件のエピソードは、神秘主義の原場面というべきものになっている。言い換えれば、不在の神を呼び求める愛の言葉を書き綴るとき、神秘家は、根本的にはマグダラのマリアのポジションに身を置いている。

以上をまとめるならば、キリスト教をその根源において特徴づけている「身体の原初的な剥奪」は、セルトーの結語ではなく、むしろその思索の出発点であるといわねばならない。『神秘のものがたり』をはじめとした諸テクストにおいて多くの紙幅を割かれているのは、不在そのものの地位ではなく、この不在によって引き起こされるエクリチュールのほうであるからだ。「[身体の不在に苦しむ]あらゆる者たちが待ちのぞむ「誕生」は、いずれにせよ、或る愛の身体を言葉によって発明(inventer au verbe un corps d’amour)しなければならない」[10]、と述べられるように、ここで生み出されるべきなのは、「身体」を呼び求め、「身体をことばパロールによってつくり出す」愛の言語である。セルトーが「身体の詩学」という言葉で予告していたのは、そうした愛の言語が取るさまざまな文学的形態と、それら一つひとつを貫いている論理についての探究であったのだろう。すでに述べたように、『神秘のものがたり』の続巻を書き上げぬままセルトーは亡くなっているため、「身体の詩学」というプロジェクトにおいて具体的にいかなるテクストや固有名が取り上げられる予定であったのかは定かではない。ただし、決定的な不在に突き動かされながら他者へとむかってゆく言語、それも本質的に多元的かつ共同的な言語について、セルトーがいたるところで示唆を与えているのも事実である。例えば、ポッジの「祝詞アーヴェ」のほかには、十字架のヨハネにおける詩/散文のカップリング[11]、アビラのテレサ『魂の城』におけるテクスト空間のイメージ[12]、異言(グロッソラリア)[13]、オクシモロン[14]、『ラウソス修道者伝』における狂人と賢者の邂逅の物語[15]、共観福音書とヨハネ書との間の「対立物の結合(complexio oppositorum)」[16]、「なしにない(pas sans)」という定式[17]などがそれに当たるだろう。これらはどれも、二項の相互の送り返しによって或る中間的な場所(「間(entre-deux)」)を創出し、そこにおいて「不在の現前」という逆説的な仕方で不在者を現出させる実践である。以上に挙げたすべてのケースを「身体の詩学」として厳密に括ることは難しいと思われるが、いずれにせよ、セルトーのさまざまなテクストにおいて共通して展開される思考や実践をより集め、その思想(史)的な意義を測ることは、依然として解釈者たちの手に委ねられている。

Notes

  1. [1]

    Michel de Certeau, La Fable mystique I, XVIe-XVIIe siècle [1982], Paris, Éditions Gallimard, « Tel », 2003, p. 357.

  2. [2]

    Ibid., p. 409.

  3. [3]

    Ibid., p. 9. 強調は原文による。なお、「無能力(incompétence)」はフロイトの『モーセと一神教』から借り受けられた表現であると考えられる。cf. Michel de Certeau, « Le “roman” psychanalytique. Histoire et littérature » [1981], in Histoire et psychanalyse entre science et fiction, Paris, Gallimard, 1987, p. 205, n. 4.

  4. [4]

    「[……]音楽的な意味で「解釈する=奏でる(interpréter)」こと、それは、[神秘主義のエクリチュールを]私たちから離れている過去としてみなすことであり、私たちがそれらの文献と同じ場所にいるのだと想定しないことである。同時にそれは、[そのエクリュールの]運動を、今度は私たちが引き受け、実践しようと試みること(essayer d’en pratiquer à notre tour le mouvement)、或る仕事の痕跡を、遠くからではあっても辿り直すことであり、過ぎ去ってゆく際に、書かれた言葉を謎めいた文字へと変えていったあの何がしかを、知の対象に同定しないことである。」Id., La Fable mystique I, op. cit., p. 29.

  5. [5]

     Ibid., p. 109-110. 強調は原文による。

  6. [6]

    Michel de Certeau, « La rupture instauratrice » [1971] in, La Faiblesse de croire, Paris, Seuil, 1987, p. 211.

  7. [7]

    Id., La Fable mystique I, op. cit., p. 411. cf. Id., « La misère de la théologie, question théologique » [1973] in, La Faiblesse de croire, opcit., p. 262 ; Id., « Du corps à l’écriture, un transit chrétien », in La Faiblesse de croire, opcit., p. 292-293.

  8. [8]

    Id., La Fable mystique I, op. cit., p. 110.

  9. [9]

    「空っぽの墓(tombeau vide)」をめぐる思索は、すでに60年代のテクストにおいて現れている。cf. Id., La Faiblesse de croire, opcit., p. 41, 213, 300, etc.

  10. [10]

    Id., La Fable mystique I, op. cit., p. 108.

  11. [11]

    Id., La Fable mystique II, XVIe-XVIIe siècle, Paris, Gallimard, 2013, p. 123-147. こちらは、セルトー本人のメモに基づき、遺稿管理者のリュス・ジアールの編集によって刊行された『神秘のものがたり』の第2巻である。

  12. [12]

    Id., La Fable mystique I, op. cit., p. 257-273.

  13. [13]

    Id., La Fable mystique II, XVIe-XVIIe siècle, opcit., p. 337-357.

  14. [14]

    Id., La Fable mystique I, op. cit., p. 198-199.

  15. [15]

    Ibid., p. 48-70.

  16. [16]

    Id., La Faiblesse de croire, opcit., p. 215.

  17. [17]

    Id., La Fable mystique I, op. cit., p. 9 ; La Faiblesse de croire, opcit., p. 112, 123, 213, 216.

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福井 有人「或る身体の詩学——ミシェル・ド・セルトーの未完の構想をめぐって」 『Résonances』第13号、2022年、24-28ページ、URL : https://resonances.jp/13/poetique-du-corps/。(2024年10月06日閲覧)

執筆者

所属:超域文化科学専攻(表象文化論)
留学・在学研究歴: