メルシエと宝くじ財と栄誉のはざまで
「庶民は一体どうやって宝くじにあてる余計な出費を賄うことができるのか?[…]妻や子どもたちの食べ物からへずっているのだ。[…]まさに犯罪こそが宝くじに身を滅ぼす者たちの財源である」[1]。これは、未来小説『2440年 またとなき夢』(1771)やルポルタージュ文学の嚆矢『タブロー・ド・パリ』(1781-1788)で知られ、18世紀後半にも多くの読者を獲得したルイ=セバスチアン・メルシエの嘆きである[2]。メルシエと宝くじというのは、メルシエを比較的よく知っている研究者にとっても、意外な組み合わせかもしれない。しかし、メルシエの著作を検討していくと、実は彼が、作品中で宝くじにたびたび言及していたことが分かる。何より、革命期のメルシエは、政府の宝くじ総監に就任している。
筆者は、あくまでメルシエの子ども表象に関心を寄せてきた研究者であるが、あるとき、冒頭にあげた一説に遭遇し、メルシエと宝くじの関係を探ってみたいと考えた。なぜならば、宝くじに向き合うメルシエの立ち位置が分かれば、直接に子どもを論じているわけではないが、メルシエの価値観や「習俗(mœurs)」[3]についての考え方の一端があぶりだせると思われるからである。啓蒙期における子どもの表象を考えるにあたっても、無駄ではないだろう。それゆえ本稿では、まず作家メルシエの書いた文学作品において、次に国民公会の議員となったメルシエの言葉において、宝くじに対する彼の論じ方がどのようなものであったかを追っていく。
1. 文学作品における作家としての言葉
1765年に教師を辞め、文筆業に専念するようになったメルシエが、はじめて宝くじに言及するのは、1768年の『哲学的夢想』(Songes philosophiques)に収められた「財産と栄誉について」においてである。この小説の主人公は、夢の中で、群衆の前にある女神が現れるのを見る。この女神はローマ神話に登場する運命の女神フォルトゥーナのようだが、ここでは、目を塞がれ、片足を信じ難いほどの速さで回る「運命の車輪(une roue)」にのせている。メルシエによって描かれたこの女神の登場場面は、当時の宝くじの抽選風景を描いた図版1にあるような、目隠し姿の人物や、高速で回るルーレットの情景を思わせる。メルシエは、強欲な人々が彼女に媚びへつらい、「女神様(Déesse)」と呼びかける様を描き、「あらゆる善行は無に帰した」と嘆いてみせる[4]。メルシエは、宝くじそのもの、あるいは節度のない群衆がもつ卑しさを批判しているのである。
一方、「財産と栄誉」と題されたこの小説において、メルシエは、美徳などの「栄誉」を忘れ、欲望の促すままに「財産」をめぐって競争する人々を非難するが、それだけにとどまらず、この競争する人々に「フィロゾーフなる者は感謝せねばならない」とも述べる。一体なぜか。
というのも結局は、深刻な状況において、国家(l’État)は彼らの活動を大いに必要としてきたからだ。[…]財の力をなくせば、愛国心とは意味のない言葉となる[…]。それゆえ富(l’opulence)は政治秩序のうちにあり、富そのものが、世界を統べる秩序の一つ(une nuance de l’ordre universel)なのだ。[…][財産を求める]彼らの行き過ぎた振る舞いを罰することができるとすれば、完璧に文明化された帝国の理論においてだろう。だが、そんな帝国はどこに存在しようか?[5]
メルシエは、賭博や投資のもつ両義性、すなわち、節度のない非道徳的な利己心を刺激する賭博が、国家の財政を支えていることを認める。それゆえ、当時の国家は、賭博にふける人々を罰することができないというのである。
当時、人々が賭け事に夢中であったのは、メルシエの描く物語の中だけではない。パリの街路では、そこに生きる幅広い階層の人々が、居酒屋や道端で種々の賭け事に興じていた[6]。とりわけ、宝くじは組織的に運営され、多くの人々の関心を引いていた。事実、メルシエがパリにおける広汎な人々の日常を、断章形式で描いた『タブロー・ド・パリ』からも、宝くじが人々にとって非常に身近な存在であったことが伺える。例えば「職人や小商人の女房たち」の章では、食糧品はみな女性の手を通ることに続いて、「女性たちはさらに、塩、タバコ、便箋、印紙、宝くじの券などを売る小さな専売所も手中に収めている」とある[7]。
近年の歴史家たちも、近代へ向かう啓蒙期の特徴として、メルシエが書き残すような宝くじ熱の広がりに注目している。社会文化的な観点からは、日常的な思考における数字そのものの浸透、あるいは印刷メディアの飛躍的な発展といった点が指摘され[8]、また、経済的な観点からは、株式や銀行と合わせて、人々の個人的な欲求を利用する資本主義の萌芽が見出されるという[9]。さらに、行政の観点からは、財政の立て直しを図る王権が、数学に明るい知識人たちによる効率的で公平な運営方法の提案を受け入れ、大規模な宝くじを組織していったという[10]。
なかでも、18世紀におけるヨーロッパ諸国の宝くじを研究する歴史家マリー=ロール・ルゲイの研究成果は重要であり、彼女によれば、ルイ15世の治世下にあるフランス王権は、施療院や修道院が、慈善活動のための資金集めに行っていた宝くじに、次々と認可を与えていった。それによって集まった資金の使い方は、七年戦争の影響下で徐々に多様化していき、「篤信(la piété)」のためだけでなく「公益(l’utilité publique)」のための宝くじになっていったという。1757年には、パリの陸軍士官学校の宝くじが、財務総監の管轄下におかれ、これはヨーロッパ最大規模の収益をあげた。そして1776年に、ついに王室宝くじが設立されるのである[11]。宝くじへの批判が、王権批判と結びついて盛んになっていったのも、この時期からのことである。
こうして宝くじの種類や規模が増大するなか、1780年代に入ると、メルシエの宝くじ批判は、王権へと向けられていく。1782年に刊行された『タブロー・ド・パリ』の第3巻[12]には、「王室宝くじ」と題された章があり、メルシエは、宝くじの請負人たちが計算のできない愚かな人々を搾取していると訴える[13]。続く「両義的な章(Le chapitre équivoque)」においても、宝くじはパリの住民の三分の二を貧困に追いやる大都市の病だと非難し、賭博に耽る群衆たちの顔が世にも恐ろしいものだと述べる。さらにメルシエは、宝くじを、株式や年金に代表される「商業(le commerce)」、すなわち、不確かな不労所得をめぐって生じる浮き沈みの激しい闘争の一つであると指摘する。そして、この闘争を国(l’État)と法(la loi)が容認していることが問題だという[14]。
未来小説『2440年』においても「商業について」の章があり、その1786年版には、1771年の初版には存在しなかった、王室宝くじを批判する註が設けられている[15]。その箇所を読んでみよう。
賢明な政府なら、一体どのようにして、市民の賃金を奪う運命の五つの数字を導くことができるだろうか?[…]人々(le peuple)は賭博に夢中であり、だからこそ、彼らが賭けに興じるのを阻止すべきなのだ。自らの手で稼ぐ労働ではないからである。[…]役人たちまでもが、運を自分らの味方につけたうえで賭け事に興じるとは、なんと慎みのないことか。[…]一王国がこのような税を課すとは、まあ何という財源だろうか。悪賢い手段で王室の金庫を潤すためではないのか?[16]
なお、この未来を夢想する小説の本文で語られる、夢の中の2440年においては、年金や宝くじが廃止されている。利害心を煽り「愛し合うべき者たちの間の心の繋がり」や習俗に致命的な打撃を与える制度がないゆえに、主人公は安堵している。
一方、賭博のもつ両義性に対するメルシエの葛藤もみてとれる。例えば、『タブロー・ド・パリ』の「両義的な章」においては、宝くじが習俗に及ぼす悪影響を強く懸念しつつも、かつては宝くじが慈善活動や王家の祝祭に際して、特例として認められていた時期があったことを回顧し、過去の宝くじを肯定している。その時代には、宝くじが「今よりも秩序を乱さず、害も少なく、各回の目的に応じた制限を外れなかったがゆえに、この賭け事は、非常に有用であった」という。これに続けてメルシエは、その過去との対比を印象付けながら執筆当時の宝くじがもつ必要性を認めるが、嫌悪も口にせざるを得ない。「今日では、私たち自身をごまかさず、あるがままに物事を眺めてみよう。金貨は諸帝国の生命線であり、[…][王という]最高位にある者までもが、他のあらゆる階層と同じく、金集めに這いつくばっているのである」と[17]。
2. 議会における政治家としての言葉
では、文学作品の外側にあるとき、メルシエはどのように語るだろうか。1792年に、国民公会の議員に選出されると、彼は王室宝くじの廃止を目指し、議会に働きかけている。メルシエは、彼自身と同じくルソー的な道徳を身につけたジャン・デュサローと共に、「賭博及び宝くじ反対」を訴える文書の作成を担当した。この文書は「国民公会はもはや宝くじによる不正と不名誉に耐えかねる」とはじまり、続く条項には、賭博に手を染めた者が受けることになる罰則や、禁止に伴い露頭に迷う200人以上の宝くじ業務従事者への補償、あるいは資金不足にあえぐ施療院などへの対応策が盛り込まれる[18]。しかし、この提言がすぐに実行に移されることはない。1793年、財産権平等の意思の元に団結したサン=キュロットが議会に対して影響力を増してくると、証券取引所は閉鎖され、金融会社や株式会社は禁止されていく。最後に残った王室宝くじも、ついに解体された[19]。
ところが、総裁政府の下でも、財政の逼迫した状況は続き、少しでも状況を改善するために議論が交わされる。その中では解決策の一つとして、宝くじの復活が度々提案されていた。1795年から五百人委員会の議員となり、なお政治の現場に残っていたメルシエは、政府が運営する宝くじの復活を擁護する立場に回る。1797年の3月には、引き続きモラリストたちによる反対は根強かったものの、廃止された「王立宝くじ」から「国立宝くじ」と名前を変えたうえで、宝くじの再編が決まる[20]。
革命期に発行されたある日刊誌によれば、宝くじ再編計画の実行決定には、メルシエの発言が影響力をもったようだ。議会の様子を伝える箇所を参照すると、まず年間で総額1000万リーヴルの利益をもたらす国立宝くじの計画が提出され、それに対し、反対意見をもつ議員が宝くじの非道徳性を述べたという。するとメルシエが、「フランス人は博徒なのだから、この致命的な情熱を統制し、[…]何とかして道徳的に高めていかねばならない」と答え、即座の採決を促したと伝えられている[21]。
この議会におけるメルシエの発言は、政権寄りの『ガゼット・ナショナルあるいはル・モニトゥール・ユニヴェルセル』に、以下のような言葉として残されている。
国家の徳性(la moralité de l’Etat)が、公債を支払い、国家の負債をしかるべく返し、生命や敬意や輝きの源である国庫を肥やすことにあるのは明らかだ。「徳のある」また「不徳の」という言葉が、おそらくは故意に、煩雑な考えを指すのに乱用されたことも明らかで、これら見せかけのモラリストたちは、宗教についての明確な考えをもたないまま、宗教また非宗教の単語を頻繁に使う者たちに似ていた。すべてこれらの詭弁はまったく意味をなさず、国民(le Peuple)を搾り取る強欲を認めるだけなのだ。国民はそれでもなお、あなた方が禁止する期待の道を追い続ける。皆が賭けることを望むのだから、公営の賭博が必要なのは明らかで[…]何ものも彼らの幸福への希望を奪うことはできず、人間を完璧にするという言い訳のもとに、最も貴重なもの、すなわち明日をよりよくしたいという希望を、取り上げる者こそ真に非人間的である[22]。
『ガゼット・ナショナル』が伝えるメルシエの発言はさらに続き、メルシエは、宝くじが無垢だとは言わないが、野放しになっている賭博を監視下に置く方が危険性が低く、できることはそれしかないと主張する。また、「人間は天使でもなければ野獣でもないが、不幸なことに、天使になろうとすると野獣になってしまう」とパスカルの言葉を引用し、あるべき姿ではなく、あるがままに人間を考えようと述べる。加えて、当時の数学者の研究結果を論拠に、今回の計画が真に慈善的な計算に基づくと述べ、周囲を説得しようとしている。宝くじの非道徳性を主張した反対派の議員に対し、メルシエの答弁は、国立宝くじが習俗へ良い影響を与えると印象付けることに成功したようだ。
国立宝くじの再編が決定した議会から約半年後、メルシエは宝くじ総監に就任する。当時の人々は、このニュースをどのように受け取っただろうか。例えば、革命期に多くの購読者を抱えたジャコバン派の日刊誌においては、メルシエの総監就任が次のように語られている。「元国民公会議員のメルシエが宝くじ総監に任命された。彼がこの分野に無関係だとは言うまい、何しろ〈賛否〉両論を書いてきたのだから。彼はこの宝くじがかつてあったときには認めず、廃止されてからは、擁護してきた」[23]。ここには、メルシエが反対から賛成へと立場を変えながら、宝くじについて声高に主張してきた経緯も書かれている。別の日刊誌も、より簡潔に「メルシエは、以前は宝くじの極めて執拗な敵であったが、今やその総監である」と伝えている[24]。これらの記事からは、メルシエが反対から賛成へと、手のひらを返したような印象を受ける。
たしかに、宝くじに賛成するときのメルシエの発言は、文学的な作品における書き方とは別人のようだ。とりわけ、国庫を肥やすためなどの理由をつけて非道な行いを容認することは、メルシエが批判していた行為そのものである。例えば、先に引用した「財産と栄誉について」と同様、『哲学的夢想』の中に収められた小説「戦争について」において、国家の弄する詭弁が批判されている。この小説の主人公は、夢の中で、戦争の悲惨な光景を引き起こした兵士たちが、正義の女神によって裁かれる場面に居合わせる。メルシエは、この場面を描く際に、「国家理性(Raison d’État)」なる語を用いて批判を展開している。
「正義」の左側では、震える声が、罪人の代弁者となり、彼らの行いを正当化しようと躍起になっていた。このか弱い声の名は、「政治」あるいは「国家理性」という。およそその声の述べることは、戯言の類であり、非人間的で、常軌を逸していた。より力強く、より雄弁な別の声が、「正義」の右側で、そうした詭弁を容赦なく打ち砕いていた。それは「人類愛」だった。その凜とした声を聞いた殺人者たちは恐怖に捉えられて犯罪を告白した[25]。
この場面において「国家理性」の声は、殺人の罪を犯した者たちを代弁する。すなわち、兵士たちをかばう際には、アレクサンドロスの例を引き合いに出し、英雄詩の作者たちをかばう際には、彼らは直接殺人を犯したわけではないと述べる。こうして行き過ぎた暴力を正当化する「国家理性」の声は、「人類愛」の声によって、詭弁だと一蹴されている。以上をふまえると、『ガゼット・ナショナル』が伝えるメルシエの宝くじ擁護論は、貧者の犠牲を国庫のためだと正当化する点において、戦争における殺人を国のためだと弁明する「国家理性」の声と紙一重である。
しかし、メルシエが賭博の撤廃された理想郷を夢想するのは、あくまでも未来においてである。自らが生きる当時の社会における賭博に対しては、当初から両義的なまなざしを向けていた。メルシエは、理想を訴える作家であるだけでなく、現実に働きかける政治家であった。そうだとすれば、パリの人々がもつ賭博熱は冷めず、国家には金が必要だという事実が変わらない以上、国立宝くじの擁護へ舵を切ったことは、彼にとって自然だったのかもしれない。
啓蒙期の宝くじは常に論争の種であった。作家人生の初期から、この論争に参加したメルシエは、まずは賭博としての宝くじを批判していた。1770-1780年代に、王室宝くじが設立され、多くの人が券を買うようになると、メルシエの非難の矛先は、王権へと向かうようになる。また、議員になったメルシエの立場が、より政府側に寄ると、道徳的な配慮は見せつつも[26]、宝くじが国庫にもたらす経済的な利益を優先するようになる。本稿では、宝くじの料金や運営方法など具体的な制度にまで踏み込むことはできなかったが、今後さらに、王室宝くじと革命期の国立宝くじ、あるいは諸外国の宝くじを比較することによって、メルシエが自身の道徳的な立ち位置を現実の政治に合わせて変化させていくさまが、いっそう明確になるだろう。
Notes
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[1]
Louis-Sébastien Mercier, Tableau de Paris, Jean-Claude Bonnet, (éd.), Paris, Mercure de France, 1994, tome 2, p. 1358.
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[2]
1740年、パリの刃物職人の家に生まれたメルシエは、ナポレオンの没落を見届けて没する1814年に至るまで、詩から戯曲や定期刊行物、新語辞典まで数多の著作を生んだ。
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[3]
この言葉は、各地の風俗に加え、人々の人柄や道徳性を指す。メルシエは、習俗論において鋭い観察眼を示すモラリストたちの系譜に連なるといえる。『十八世紀叢書 II習俗』立川孝一他訳、株式会社国書刊行会、2001年。
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[4]
Mercier, Songes philosophiques, Londres/Paris, Lejay, 1768, p. 322-323.
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[5]
Ibid., p. 336-337.合わせて、夢想小説「利己主義について」も参照されたい。Mercier, Mon bonnet de nuit, Jean-Claude Bonnet, (éd.), Paris, Mercure de France, 1999, p. 517-521.
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[6]
Olivier Grussi, La vie quotidienne des joueurs sous l’Ancien Régime à Paris et à la Cour, Paris, Hachette littérature, 1985.
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[7]
Mercier, Tableau de Paris, op. cit., tome 1, p. 629.
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[8]
Francis Freundlich, Le monde du jeu à Paris 1715-1800, Paris, Albin Michel, 1995.
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[9]
David H. Gowland, “Financial Innovation in Theory and Practice”, Surveys in Monetary Economics, Oxford, Basil Blackwell, vol. 2., 1991. Kruckeberg, “The wheel of fortune in eighteenth-century France. The lottery, consumption, and politics”, dissertation, University of Michigan, 2009.
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[10]
Marie-Laure Legay, Les loteries royales dans l’Europe des Lumières. 1680-1815, Presses universitaires du Septentrion, 2014. [en ligne] https://doi.org/10.4000/books.septentrion.1554. (pages consultées 16 juillet 2024). 王権は、高度な計算を駆使する知識人たちに出し抜かれることもあった。1729年、ヴォルテールは数学者らと協力して宝くじの穴をつき、全ての券を買い占めることで大儲けしたという。
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[11]
Ibid., p. 13-34.
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[12]
1781年に『タブロー・ド・パリ』の最初の2巻が発売されると、売れ行きが好調だったため、メルシエは増補改訂を重ね、最終的に全12巻となった。
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[13]
Mercier, Tableau de Paris, op. cit., tome 1, p. 630.
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[14]
Ibid., p. 693-694.
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[15]
『2440年の夢』も増補改訂が繰り返されたが、メルシエは1786年の版を完成版だと述べている。
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[16]
Mercier, L’an 2440. Rêve s’il en fut jamais, Brosson et Carteret, 1786, p. 218-219.
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[17]
Mercier, Tableau de Paris, op. cit., tome 1, p. 695.
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[18]
M. J. Guillaume (éd.), Procès-Verbaux du Comité d’Instruction Publique de la Convention Nationale, Paris, Imprimerie nationale, 1891, vol. 1, p. 43, 103-104.
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[19]
なお、国王の処刑に反対し、ロベスピエールと対立したメルシエは、1793年の4月に投獄され、テルミドールの反動まで復職できない。
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[20]
Legay, op. cit., p. 138-148.
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[21]
Le Miroir, 25 mars 1797, p. 4.
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[22]
Gazette nationale ou le Moniteur universel, 30 mars 1797, p. 1.
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[23]
L’Ami des lois, ou Mémorial politique et littéraire, 13 octobre 1797, p. 1.
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[24]
La clef de cabinet des souverains, 14 octobre 1797, p. 3.
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[25]
Mercier, Songes philosophiques, op. cit., p. 235-236. Mercier, « De la guerre. Songe », Mon bonnet de nuit, tome I, Imprimerie de la Société typographique, Neufchâtel, 1784, p. 98-99(芹生尚子「ルイ・セバスチアン・メルシエ『戦争について──夢──』翻訳・解題(2)」『ふらんぼー』第48巻、2022年、175ページ).
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[26]
メルシエは、『新パリ』(1798年)にて、「私の再建した」国立宝くじは、今や善行をなすのみだと自賛する。Mercier, Le nouveau Paris, Jean-Claude Bonnet, (éd.), Paris, Mercure de France, 1994, p. 661.
この記事を引用する
土方 咲「メルシエと宝くじ——財と栄誉のはざまで」 『Résonances』第15号、2024年、ページ、URL : https://resonances.jp/15/le-tirage-mercier/。(2024年11月21日閲覧)