情念と/の〈マネジメント〉ピエール・ルジャンドルの場合
0. はじめに──ルジャンドルと〈マネジメント〉
昨年三月にこの世を去ったフランスの法制史家・精神分析家ピエール・ルジャンドルは、自身のライフワークであった「ドグマ人類学」のなかで、現代のマネジメント主義を少なからず批判している。ただしその語り口は必ずしも明瞭というわけではなく、多くの場合、グローバル化した経営管理の言説が世界の各所で軋轢を生んでいること、そうした帰結に抜きがたく関わる自身の性質からマネジメント主義が目を背けていること、そもそもマネジメントという領域についての研究が不足していることなどが、突き放したような口調で指摘されている。本稿ではまず、そのようなマネジメントの性質を分析することからはじめたい。ルジャンドルによれば、マネジメントも「ドグマ的」に機能するものであるから、その過程で「ドグマ人類学」の要点をひとしきり概観することになるはずだ。そしてこの「ドグマ性」を、合理主義の旗手であるマネジメントが黙殺しようとすることも想像に難くない。しかしこの黙殺をつうじて、その非合理的側面が後景に退くのと軌を一にしてマネジメントの基底ともいうべき部分が露わになるのであり、ルジャンドルの特異な見方が際立つのもまさにそこにおいてである──「〈マネジメント〉は詩を拒否すると同時にそれを必要としている」[1]。マネジメントが後ろ手に操る詩、ないしそれに準ずる審美的なものに目を向けることは、ルジャンドルのいう「政治的愛」の概念へと立ち入ってゆくことでもある。そこでわれわれは、「政治的愛」がどのように機能し、いかにして賦活されているかを見ることになるだろう。そしてこの観点は、マネジメントのみならず、教会や国家などあらゆる制度体を考察するにあたって共通するものであることが明らかになる。以上を踏まえて本論文では、ルジャンドルにおけるマネジメントの「系譜学」とでもいうべき、ひとつのコンセプトが提示される。
1. 「手」の形象──〈マネジメント〉の構造
まずは対象となる問題の、外郭を測定するところからはじめよう。ルジャンドルは現代の〈マネジメント主義〉ないし〈マネジメント革命〉の代表を、アルフレッド・チャンドラーの『見える手』に求めている[2]。その理由として、もちろんこの文献がマネジメント論の古典であるから、ということは言を俟たない。しかしルジャンドルは、「マネジメントという『目に見える手』が、かつてアダム・スミスが市場を支配する諸力の『見えざる手』と呼んだものにとってかわった」[3]というきわめて明晰なチャンドラーのテーゼの、むしろそれが無意識のうちに抱えてしまった詩的文彩──とりもなおさず「(見える)手」という形象──に注目している。
「見えざる手」は「見える手」になった。これは〈マネジメント〉の理論家であるチャンドラーの命題だが、かれはわたしがここで人工物(artefacte)と呼ぶものを、親しみやすい言葉で翻訳している。このことがいわんとしているのは、結局のところ、20世紀の科学主義〈革命〉は因果性のディスクールを脱―隠喩化した(dé-métaphorisé)ということであり、科学主義の因果性とはほとんど相いれることのないトリックとして現れるフィクションの繰り糸を引きながら、あらゆる神話的な抵当から解放された世界についての法を定礎するということについて、その取り扱いをみずからに課すということである[4]。
この視点によって拓かれた審美的次元に立つことで、ルジャンドルは、紋章学と経済学を同列に置くという独特な議論を展開している。また、「見えざる手」のメタファーによって両者は「構造の観念を転記してきた」[5]と指摘され、ある特定の構造、すなわち象徴秩序が問題となる。その構造とは、引用中の言葉を借りれば「因果性のディスクール」ないし「世界についての法の定礎」であり、ルジャンドルの読者であればすぐさま、かれが制度のドグマ的構造と呼ぶものにほかならないとわかるだろう。ただしここでは確認も兼ねて、上記に一般的な説明を付け加えておきたい。さしあたりこの構造は、神話的次元において隠喩的に機能するのであるが、マネジメントはこうした詩的要素を排除するという二重の関係をおさえつつ、ドグマ人類学のアウトラインを概観しておこう。
ルジャンドルは、人間が「話す動物」であるというアリストテレスの定義から出発する(『政治学』1253a)。母胎から生まれ落ちた人間は、ことばを話す主体として、そしてまた親子関係のうちに書きこまれた主体として、二度生まれることが必要である[6]。こうした言語体系や系譜原理を社会的なものとするならば、ひとりの人間は、生物学的次元と社会的次元に跨りながらこの世に生を得る。ルジャンドルがローマの法律家たちの表現を引いていうように、人間の生を生かしめるためには、「生を制定する(vitam instituere)」[7]ことがなによりも必要なのだ。そしてそのような社会的存在としての人間が種として存続してゆくこと、これを人間の再生産(reproduction)と呼ぶのであれば、「人間の再生産とは、生物学的なものと社会的なもの、そして同時に、身体そのものについての奇妙な知、すなわちフロイトが無意識と名指した知との結い合わせを求める」[8]。
フロイトは『トーテムとタブー』のなかで、人類学が発見したトーテムの制度を自身が練りあげたエディプス・コンプレクスの機制に結びつけて論じ、主体が形成される過程を説明した[9]。人類学が見出し精神分析に継承された「タブー」の概念は、〈禁止〉として構造を駆動する契機となり、主体の形成と死活的な関係を結ぶことになる。この〈禁止〉はいわば「分割の法」として、あらゆる社会における生の組織化を担っている[10]。では分割とはなにか。
ルジャンドルによれば、それは第一に「主体が象徴的空虚の経験を経たこと」[11]を意味する。フロイトは自身が観察したあの有名な糸巻き遊びにおいて、幼児にとっての玩具の「いない/いた」を、保護者(とりわけ母親)の不在/現前に結びつけた。この弁証法の過程に入ることで子どもは、対象の消滅が、自身にとってもはや生死を左右する事象ではないことを納得する。以上の経験によって主体は、(1)母-子の原初的融合を断ち切り──近親姦の〈禁止〉──(2)物理的現前を表象的現前によって置きかえることで、主体をめぐるあらゆる象徴的構成が立ちあらわれる。
第二に、分割によって主体は「因果関係のうちに導入される」[12]。この因果関係は、とりわけ自身の存在の根拠を問うものとしての〈理性原理〉との関係によって表される。すなわち自分は何者であり、なぜ存在するのかという問いである(ここでいう「理性」とは「理由(raison)」でもあり、「なぜ?」という理由をめぐる問いかけをつうじて理性は維持される)。象徴秩序への参入によって、保護者の不在は表象のカテゴリーとしての地位を獲得し、「第三項」へと転じられる。保護者が欲望する地点としてのこの「第三項」を幼児は欲望するが、もちろんそれは叶わない。この同一化の禁止によってはじめて「第三項」は「父」のステイタスを得るとともに、それを欲望するものとしての「母」、そして「子」という三角関係が、ちょうどパズルのようにして組み立てられる。「われわれは三人で三項関係のなかに生まれる」[13]のであり、はじめて「わたし」は、父と母の子であるというみずからの存在の根拠を通達される。分割の第三の機能、すなわち「自己を認知すること」[14]がはたらくのである。
さて、「話す動物」としての人間という種が再生産されてゆくためには、誰かの子として存在の根拠を告げられた主体が、やがてまた別の誰かの親になるという系譜関係のうちへと位置づけられることが必要である。それは世代の連なりのなかでなされる象徴的位置交代を代謝させるのだが、ひるがえって、主体に論理的な禁止を刻みこむことにもなる(自分は自分の親であることはできないし、自分の子であることもできない)。すなわち親になろうとする者は、すべてを要求できるという「子」の立場、全能性の欲望を放棄し、〈禁止〉の法がもたらす限界を受けいれなければならない(この具体的相が、近親姦と殺人の禁止ということになる)[15]。
では、系譜関係のうちに位置を見出した存在の根拠は、いかにして真理たりうるのか。ひとことでいってしまえば、法に書きこまれることをつうじて、である。『ユスティニアヌス法典』として集大成されたローマ法、およびそれを継承した法の領域の総体としての民法では、その構成要素たる身分法(droit des personnes)が、「人格(personne)」を主体に与える。「父」「母」は民法上の人格としてそのまま記載され、子たる「わたし」は「ふたつの話す主体から生まれたという出生の合法的刻印」[16]を押されることによって、はじめて制度的主体として立ちあがることができる。ここで真理の場所たる「法」は、絶対的〈準拠〉として機能する。〈準拠〉とはルジャンドルにおける鍵概念であるが、さしあたり真理を根拠づけるための地点であると理解してよいだろう。ある規範が規範たりうるためにはその根拠(fondement)が必要であり、「なぜ?」の問いをともなうことで因果律のなかに置かれることになるのだが、論理的には無限に遡及できるこの連鎖の最終地点として、参照すべき絶対的な審級として機能するのが〈準拠〉である。西洋についていえば、古代では神話が系譜原理を説明していたのであり、キリスト教社会では聖書が、世俗化したといわれる社会においても法が、「書かれた理性」として真理を定礎(fonder)する(神話であれ聖書であれ、はたまた法であれ、最終的な説明因子は「ここに書かれている」ということしかない)。〈準拠〉は因果律のいわばストッパーとしてはたらいているため論理的な説明を必要とせず(むしろできず)、儀礼的・審美的に語られることで真理を宣告する。ここでなされるのが真理の「上演(mise en scène)」であり、このような真理を見せるはたらきのことを、その語源となるギリシア語動詞ドケオーを経由しながら、そして派生語であるドクサの両義的な意味に言及しながら──「公理や原理、あるいは決議としてのドクサ(doxa)の側面と、名誉や美化、装飾としてのドクサ(doxa)の側面である」──、「見えるもの、現れるもの、それらしいもの、そう見させるもの」といったその語の意味を強調しつつ[17]、ルジャンドルは次のように名づける。すなわち「ドグマ的機能」と。かくして人間の、自己と世界の根拠となる〈準拠〉は、社会と個人(主体)の二平面の関係性を保証する〈第三項〉として定礎され、演出あるいは劇場化というかたちで再現=表象される。
⒉ 詩学の隠蔽──〈マネジメント〉のパラドクス
迂回が長くなった。冒頭の引用に戻ろう。マネジメント主義をひとつの主要素とする20世紀の科学主義〈革命〉が因果性のディスクールを脱―隠喩化したということは、ひるがえれば、因果性のディスクールは隠喩的なものとして存在してきたということでもある。なぜなら因果律を支える第三項としての〈準拠〉は、ドグマ的にのみ──ここでは上記の「ドクサ」の二番目の側面に即して──確認できるからであり、人間の生を制定するさまざまな真理の役割は、象徴的な手続きによってアクティヴェートされる。
この構造が脱―隠喩化されるとはどういうことか。確認になるが、第三項を介したコミュニケーションは「絶対的〈他者〉のイメージ、つまりは権力のファンタスムを構築すること」[18]で、人間が制度的に生きることを可能にしている。そしてこのイメージは「人間的主体を構成する問いに向けられるため、産業の領域からも排除することはできない」[19]。ゆえに「産業的統治の最先端である〈マネジメント〉は、社会科学や人文科学などの全体に浸透しようとしているが、やはり〈準拠〉の構築を事実上わが手に収めようともしている」[20]。しかし合理主義の旗の下にあり定量化できないものを俎上に載せられないマネジメントは、ドグマ的に機能せざるをえない自身の性質に直面すると、この象徴的第三項を隠蔽するようにふるまう。
フィクションとしての性質をもち、それゆえ社会的事象の計測可能な会計作業とは相いれないとみなされる象徴的総体は見落とされるようになり、〈第三項〉の次元は、それ以後ことばの絆を定礎するものとして昇格した差異化の諸基準によれば客体化することができないため、格下げされた宗教ないしその他諸々の表象の資本と混同されるようになってしまった。わたしたちは二項的コミュニケーションと対抗関係の定量化の時代に入ったということだが、それは主体化のレヴェルでは〈主体―王〉、いいかえれば限界を知らぬ主体の時代が到来したことを意味している[21]。
〈主体―王〉あるいは「王としての主体」とは、簡単にいってしまえば、限界を知ることなく全能性のファンタスムに囚われた主体のことである。先述のとおり、主体は〈準拠〉が発動させる禁止の法によって分割され、限界を刻まれることではじめて社会的に生きられるようになるのだった。象徴的第三項の隠蔽は、個人と社会という二平面の関係づけを可能にする論理的要素を脱臼させる。そうなると禁止の法は失効し、没―理性へと落ちこんだ〈主体―王〉がそのまま社会へと対峙することになる。ここで精神分析や人類学の観点に立ち戻るならば、禁止とはまずもって近親姦の禁止であり、全能性とは殺人と近親姦を恣にすることであった。ここでひとまずのアウトラインを画定し、以下に論じてゆく内容を予告的に述べてしまおう。すなわちマネジメントを論じることは、母の問いに向かうことである。そしてマネジメントに限らず、人間を情動的に組織してゆく方法論の手札を開けば、そこには母との関係というモティーフがある。
⒊ 〈母〉の問題──〈マネジメント〉の基底
マネジメントとは母の問いである、というこのうえなく譫妄的なテーゼに取り組むために、補助線として「政治的愛」という概念を導入してみよう。「政治的愛」もルジャンドル独自のものであり、1988年に刊行された『講義』シリーズ第7巻『神の政治的欲望』(Le Désir politique de Dieu)のなかで一定の結実をみている。たとえば祖国愛の形象をとった政治的愛は、古代ローマの伝記家スエトニウスの筆により、母を抱くカエサルの夢に現れていた。
そのような夢想はカエサルにとって、世界帝国の前兆となっていた。かれが自身の下に見たこの母は、すべての人間を産み落とすためにやってきた大地以外のなにものでもなかった。伝統的なディスクールのなかでたびたび取りあげられるように、この夢は、人類の権力とのつながりの精髄を、カエサル個人とはまた別のレヴェルで通告しているという観点で、人類学的な意味を持っている。すなわち、母の帝国との関係を活性化させるという意味である[22]。
帝国の支配者として権力を持つことは、母(なる大地)との合一と表裏の関係になっている。このことをラカンによるエディプス・コンプレクスの定式に投影してみれば、子が母を欲望することは、母の欲望の欲望、すなわち母が欲望するところのものである想像的ファルスへと自分を鏡像的に合一化することであり[23]、このファルスが権力のシニフィアンであることに鑑みれば[24]、自身がまさに権力であろうとすることの欲望であった。ルジャンドルによれば、権力は母との合一をイメージとするこうした愛のイリュージョンによって作用するのであり、それはどの制度体においても共通する機制である。
権力、わたしたちが権力と呼ぶところのものは実際、愛をつうじてわたしたちにはたらきかける。一体化するイリュージョンといってもよい。つまりは普遍的な愛、とりわけ母との普遍的な愛の幸福を宣べ伝え、それを書き記すことによって実現する。この別格の愛はあらゆる分類を一緒くたにし、社会とは猥雑な売春宿のようなものだと通告するのだが、この点は西洋でもっとも廃れてしまった文献、すなわち典礼学者たちの著作と深く関わっている[25]。
ルジャンドルは13世紀の教会法手続きに関する概論書[26]に見られる表現──なぜこの母[=教会]を娼婦と呼んではならないのか。彼女はすべての者を愛し、そして誰もが彼女を愛するというのに──や、ホッブズ『リヴァイアサン』によって喩えられた制度の作用による愛の抱擁という真理──リヴァイアサンとしての国家は臣民を抑圧する技術などではなく、政治的愛の完遂なのである──に言及しつつ、帰属すべき対象(それは教会であっても国家であってもかまわない)を母とみなし、それに抱擁されるかたちで主体が同一化されてゆく権力のモデルを措定している。この構造、とりわけルジャンドルがアウグスティヌスの表現を引いて「愛の構築」と明記する構造は、まずもって母を抱くという近親姦的欲望を、そしてそれが叶えられないことで(後述するように、この欲望は完遂されることがなく、空転しつづけることに意味がある)、誰とでも寝る女というファンタスムを逆説的に想像させることで駆動されている。
さらにルジャンドルにおいて特異な展開を見せるのは、この政治的愛のしくみが、マネジメントにおいても機能しているという指摘である。「産業的コミュニケーションについての講義」という副題が付された1982年の著作『テクストから零れる詩的なことば』(Paroles poétiques échappées du texte)では、他の著作と比較して多くの紙幅がマネジメントに割かれているが、たとえばマネジメント的な経営管理の言説を含む産業的コミュニケーションのなかではたらいている「共有=分有(partage)」について、以下のように述べられている。
問題となっているさまざまな現象のなかに共有があるならば、曖昧なもの(équivoque)を共有財とすることが重要である。奇妙な仕事である。
曖昧なもののコミュニケーションにおけるあらゆる共有のモデルは、想像不可能な女性、原初で原始の女性への糊づけ(collage)である。動物的心理学の用語でいえば、〈母〉との関係になるだろう。わたしは自分の母を、ほかの誰とも共有したくなかった。しかし分析によって、母とわたしはなにも分かち持つものがなかったと気づくのだ。曖昧なもの以外を除いて[27]。
ここで「糊づけ(collage)」という語にたいして注釈を加えておこう。「糊(colle)」「貼りつき(adhésion)」「釘(clou)」といった縁語も含めてこれらの用語は、制度の信託的側面を構成するうえで不可欠なものである。「わたしたちが真理を語る〈テクスト〉の生きた症候であることをいうために、わたしは糊づけの思考や粘着性の思考、エンブレム的思考などの、ほかの表現を用いていたこともあった。[…]プラトンの時代には、魂という糊や釘というものを想起することで、真理との死活的な関係というこの問題をかなり明瞭に理解することができていた」[28]という文からわかるように、糊と釘は、われわれの真理との関係を語るためのメタファーとして用いられている[29]。とりわけ糊は政治的愛において、なんらかの帰属先(真理や準拠、思想など)にたいする人間の身体的なありかたを説明するものである。
わたしたちは政治的思想を、身体のどこかに携え、ちょうどタトゥーのように肌身離さず持ち歩いている。この意味で以下のことは、精神分析のもっとも不快な発見と厳密に対応している。すなわち思想はわたしたちの皮膚に貼りつき、ファンタスムを介して移ろうということである。貼りつく(adhérer)ということは、誰かの思想に糊づけされることであり、誰かに糊づけされることである。思想の粘着性にかんするこうした考察は、典礼学の技術、すなわち思想の典礼学的な生産様式にまで遡るものであり、産業人類学にとっての重要な問いである[30]。
この糊づけは、まずもって母への粘着を文字どおり母型としていることに注意しよう。上述したカエサルの夢に続く箇所で、ルジャンドルはバッハオーフェンの「母なるもの(Muttertum)」[31]を引き合いに出す。母なるものは「権力の欲望が人間的であるかぎりにおいて、つまりはその原理じたいのなかで、近親姦の表象に繋がれているかぎりで」[32]広く現前しているのであり、政治的愛においてはこの母との関係における「曖昧さ=いかがわしさ(équivoque)」が共有され、伝達されているのである。ただし、これだけである。母なるものはあくまでイリュージョンとして機能するのであり、そこにもうひとつ別の権力の形態が作用することになる。
この高名な近親姦は、それを魅惑の中心軸として周囲にあらゆる神話的モンタージュが果てしなく演じられ、さらにそこへ、対置されるもうひとつ別の権力が依拠することになる。この別の権力を父の帝国と呼ぼう。そしてここでもバッハオーフェンの定式に基づいて、父なるもの(Vatertum)と呼んでみよう[33]。
母なるものと父なるものは、互いが互いの陰画として動いているのであり、失われた桃源郷のようなものとして母の帝国があったり、両性の入り混じる狂乱状態があったりするのではない。先に見たとおり、権力の絶対的準拠に同一化することは、禁止の法を犯して全能の主体となることであり、すなわち主体の破滅を意味していた。「権力の欲望が人間的であるかぎりにおいて」それは回避されなければならないのであり、父の介入すなわち去勢が必要となる。ふたたびラカンの定式を参照すれば、想像的ファルスの享楽を、象徴的ファルスによって制御することが求められているということもできるだろう。したがって問題は、いかなる方法で享楽を調整するかということになる。だが再度確認しておこう。「政治的欲望は近親姦にたいする集団的関係が記録されたレジスタの上に賭けられている」のであり、「権力の一部をなしているすべての重要な部分──それは古典的な宗教だったり、マーケティングだったり、政治的組織の特殊な一タイプだったりする──はこの賭金に関係している」[34]。「近親姦(inceste)」の語源« incestus »に遡れば、これは「を欠いている」を意味するラテン語動詞« careo »から派生した語« castus »の対義語にあたるものであり、後者が「を欠いている、混じり気のない、純潔な」を意味することに鑑みれば、前者は「欠如の不在、すべてと一体をなすという考えを指し示している」。ルジャンドルはこの点を指摘しつつ、なんらかの対象に帰属しなければ生きてゆけない人間の本質を次のように剔抉する。
わたしたちが全体主義的精神と呼ぶものは、こうした人間の弱さをあてにしている。すなわち非―分割、〈すべて〉への糊づけである[35]。
だから宗教にしても政治にしても、あるいはマネジメントにしても、こうした人間の痛点に触れるとき、そのやりかたは近親姦的な含みを持つことになる。それは分割以前、〈すべて〉に癒着することのできた、母への欲望である。
⒋ 感官の組織──〈マネジメント〉の戦略
かくしてわたしたち、産業世界に生きるわたしたちは、なぜいにしえの政治科学がけっしてその入り口を見失わなかったかということを理解できるだろう。それはまずもって心理学について語ったのだ。スコラ学からトマス・ホッブズに至るまで、問いは以下のように立てられる。すなわち人間とはなにか? いかにして人間は感覚し、そしてなにを感覚するのか? 享楽へのアクセスを知ること、これが捉えるべき賭金である[36]。
「享楽することが意味するのは、自身の無意識的のファンタスムが書かれてあるさまに、文字どおりしたがうことである。このファンタスムは、フロイトがリビドー(すぐれてスコラ学的な術語である)と呼んだものを、まずもって母への欲望に規定された主観の組成として組織する」[37]と述べられるように、ひとがなんらかの対象に帰属するとき、その対象を母と見立てた身体的な関係が措定されるという点で、このメカニズムは享楽と抜きがたく関わる。欲望すべき対象など存在せず、ただ欲望する主体があるだけだという精神分析の透徹した視点に立つならば、「欲望の対象は構築され、捏造される」。だから権力は、主体が自由に欲望を作り出せることを利用し、なんらかの真理──これは主体からの愛を伴うことで身体的な帰属先となる──を打ちたてることで、主体を享楽させる。「政治的管理にとってなによりも重要なことは、真理を製造すること、可能ならばフェティッシュとしての価値のある真理を製造することである」[38]。
次に、こうした権力の見取り図は人間の魂を前提としており、歴史的にキリスト教の血を引いていることが指摘される[39]。たとえば「統治」と「魂」の関わりについて、試みに19世紀を代表するエミール・リトレの『フランス語辞典』で「統治(gouvernement)」の項目を引いてみれば、その語義は制度的な次元、家政的な次元、そして霊的な次元に渡っていることがただちに理解できる[40]。神学の歴史に照らすと、統治や権力といった概念は原罪に結びついており、本来であれば楽園に住まい手を加える必要などなかった人間を導く手段として構想された。政治的権力はまずもって、堕落と逸脱を本性とする人間を矯正し罰する道具立てとして理解されたのであり、魂を統治し救済へと導くことに人間の統治は寄与していたのである。こうした歴史の流れに棹を差しつつ、たとえばフーコーは、魂・意識・良心といった観念で自己とその真理としての内面を設定し、洗礼や秘蹟、告解によって人々を導く司牧権力を統治性の源流に見出したのであった[41]。以上のような統治における政治的相と心理的相の重なりに留意すれば、政治的愛は魂の統治の名の下に、いかにして感覚を操作してゆくかという問いに行き着く。愛の構築を可能にする抽象的な帰属先にたいし、それぞれの魂は感覚的、あるいは身体的なやりかたでしか粘着することができない。ここに生じるある種のねじれは、一方では感覚の断罪へと、他方では感覚の理想化へと帰結する。ルジャンドルはとりわけ後者にかんして、五感を身体の法の番人として称揚し、誘惑に抗うキリスト教の魂のありかたを「神秘的闘争(combat mystique)」と呼んでいる。
神秘的闘争とはなにか。それは享楽=享受(jouissance)の方法について語ることであり、身体や五感を、この身体が法の下での証明となるように用いることであり、至高の〈原因〉のために欲望を、あらゆる無意識と意識を動かすことである[42]。
上記のようなキリスト教の感覚論をはじめとして、「いにしえのすべての政治科学、サイコ・ソシオロジーの勃興に先立つ政治科学は、同様のスタート、すなわち感覚についての考察に由来している」[43]。ルジャンドルが指摘しているように、ホッブズの『リヴァイアサン』では序論を承けてすぐ、人間について、そして感覚についてという議論が展開されることも、その例証となっている。
さて、キリスト教の系譜に国家の管理経営やマネジメントが連なるという地平が切り拓かれたということは、ある権力のモデル、すなわち真理の場、自身が準拠する場をファンタスム的に製造し、そこに教会であれ国家であれ、はたまた企業であれ、任意のものを代入しても成立する権力のモデルが提示されたということでもある。こうした歴史の連続性を、ルジャンドルは次のように強調する。
最先端のマネジメントは、権力が持つ全能のファンタスムの社会的調整をモダナイズしつつ、愛をつうじた信仰の絶対的な武器を操っている。マネジメントは、真理が占める理想的な場所とのファンタスム的な関係というカードを、宗教的な典礼と同じくらい効果的なやりかたで切っている[44]。
神に身を捧げること、国家に身を捧げること、企業に身を捧げること。これらはすべて、そこに帰属しようとする主体の身体を魅惑し支配するという共通の原理のもとで機能している。身体がある所定のしかたで感覚するように仕向け、享楽を操作するディスクールを喧伝し、おのおのの主体がそこで製造された真理を賭けて闘争する戦士となるように導く術は、まさに戦争の技術そのものである[45]。
マネジメント的経営管理の技術やマーケティング的販売促進の技術と、戦争の技術を類比する視点は、いまやけっして目新しいものではない。ビジネスのフィールドにおいては「戦略」「戦術」といった言葉が日常的に飛び交っているし、みずからを戦争に喩えてゆく動きはむしろ産業界のほうから進められたように見受けられる。いずれにせよ1960年代から70年代にかけて、たとえばフランスのマーケティングに関する論文では、マーケティングの技術は戦争の技術であり、戦争の技術を体系的にマーケティングに移し替えた者が競争の勝者になると明言されているし[46]、戦略マネジメントに関するアメリカの文献は、「プランニングの精神(the spirit of planning)」をとあるイエズス会士の言葉に見ている[47]。以上のことは、他者と競合しながら自身の領土=市場を拡大していく過程が、戦争になぞらえられていることのひとつの証左である。
しかしルジャンドルの議論で焦点が当てられているのはむしろ、いかにして他国=市場を攻めるかではなく、いかにしてその戦争に参加する兵士を訓練するか(現代的な用語でいえば組織戦略)ということだろう。
おまけにそれぞれの企業は、祖国となることを運命づけられている。このことは、そうした新たなタイプのミニ国家ないしミニ天国が語るテクストを読めば容易に理解できる。参加するという理想、ブランドのゲーム、鳴り響く広告、旗としてのエンブレムは、そうした潮流の力を証し立てている[48]。
愛社精神などと口にすると一昔前のように思われる時代だが、会社の理念への共感を求めるといえば、現代のどの企業でもおこなわれていることだろう[49]。そして従業員の「自己実現」を約束しつつ、人間の欲求説に基づく複数の観点から業務を評価し「社員」を仕立てあげてゆくさまは、完徳(perfection)を目指し、その過程でいくつかの「敬虔のための範例(exemplum pietatis)」を設けるキリスト教の戦略と酷似している[50]。
⒌ おわりに──〈マネジメント〉の「系譜学」
統治権力は規律化したキリスト教を、名前を変えて継承しているのだという見立ては、先述のとおりとりわけフーコーをつうじてわれわれの知るところとなっている[51]。そしてかれの衣鉢を継ぐかたちで、たとえばニコラス・ローズは、この系譜を現代社会におけるマネジメントにまで敷衍している。両者の議論のベースとなっている「統治性」には、権力が規律的なものとして作用しながら主体のうちに織りこまれ、おのおのの主体が自律的に自己を統制し管理してゆくということがコンセプトにある。そしてこの自己の統治は、個人のプライヴェートな領域まで、「選択」という形式をともなって侵入する。すべては「選択」の問題であり、しかしその「選択」によって、われわれは自分がどのような人間であるのかを、自己と他者に向かって説明するのである。
自己は、たんに選択することが出来るだけでなく、生活を、その諸々の選択、その諸々の権力、そしてその諸々の価値の観点から、解釈することを義務づけられている。諸個人は、彼らの生活[人生]の道筋を、そのような選択の結果として解釈し、そのような選択の根拠という観点から、彼らの生活についての説明責任を負うことが期待されている[52]。
新自由主義の旗の下では企業がひとつの重要な単位となるが、それは経済的原理を機能させると同時に、個々の市民の生活を組み立てる原理をも供給する。「個々人は、彼らに準備されたものの中から生活の形態を選択することを通じて、彼ら自身の生活を形作る、いわば彼ら自身の企業家となるのである」[53]。こうした選択は、一方で自由意志という体裁をとりながら、他方で義務づけられてもいる。自由とは、規律権力、いいかえれば〈父〉の遍在化と内在化というマネジメントの力学によって構築された舞台の上で、かりそめに上演されるものだという見方がここにはある。
ルジャンドルは『神の政治的欲望』の末部で、アレクサンドロスとディオゲネスの逸話を引きながら、自由は欲望されることなしには存在しないと結んでいる。かたや強制を命じる権力があり、かたやそれに抗う自由がある。両者の弁証法的なダイナミズムのなかでしか、自由の稜線は描かれない。
一方でわたしたちは、自由に生きることを望んでおり、自由に生きたいという。他方で権力は、いかなる権力であれ、[わたしたちに]語りかけ、要求する。ふたつのディスクールによって形成された西洋の制度は、そのあいだにある隔たりを維持すること、いいかえれば、それがあたかもジレンマに属するものであるような政治的紐帯(lien politique)を組織することを可能にしたのである。すなわち、自由か権力かというジレンマである[54]。
ルジャンドルが強調するのは、上演された自由の劇よりもそれを成立させている舞台装置そのもの、自由と権力のジレンマとして現れる弁証法的動作の繰り糸を引いている、「あたかも」を成立させるようなモンタージュの効果である。そして繰り返しになるが、このモンタージュは、母の帝国と父の帝国の両輪によって織りなされている。ネオリベラリズム的なマネジメントはルジャンドルからすれば、全体主義とほぼ等価な「構造的に発狂させる」[55]ものであり、それは全能的自由の幻想を主体に付与することによって、それぞれの主体が母なるものと近親姦的に合一するという構造的破綻を陰画的に示してもいる。もちろんこの全能的自由は「あたかも自由であるかのように」与えられているのであり、フーコー─ローズの視線はそこにはたらく規律権力に向けられていた。しかしルジャンドルの関心は、この「あたかも」それ自体に切れ目をいれること、そしてマネジメント的構造の原初には、母との関係によって説明される情念の次元があることに向けられている。ウルトラモダンの世界に生きる合理的人間の身体にも流れ続ける情念があり、それを経由しなければ〈マネジメント〉は成立しない。一瞥するとあたりまえであり、プライマリーであるがゆえに見ようとされないこと。その一点に向けて、かれのテクストはわたしたちの目を啓かせている。
Notes
-
[1]
Pierre, Legendre, Paroles poétiques échappées du texte. Leçon sur la communication industrielle, Paris, Seuil, 1982, p. 229. 以降、ルジャンドルの著作は著者名を省略する。また、本論との関係上、引用はすべて拙訳による。
-
[2]
L’Empire de la vérité. Introduction aux espaces dogmatiques industriels [1983], nouvelle édition, Paris, Fayard, 2001, p. 158(『真理の帝国』西谷修・橋本一径訳、人文書院、2006年、209ページ).
-
[3]
アルフレッド・チャンドラー『経営者の時代 アメリカ産業における近代企業の成立』鳥羽欽一郎・小林袈裟治訳、東洋経済新報社、1979年、4ページ。
-
[4]
Le Désir politique de Dieu. Étude sur les montages de l’État et du Droit[1988], nouvelle édition, Paris, Fayard, 2005, p. 142.
-
[5]
ここでの紋章学では、とりわけドイツの法学者ボルニティウス(Jacobus Bornitius, 1560-1625)が描いた挿絵群が念頭に置かれていて、たとえば『真理の帝国』では次のような解説が施されている。「神の糸が君主の心をつなぎ、翼(おそらくそれは神話における不死鳥フェニックスの翼である)の生えたその心は無限に再生産される権力の心である。ここでは政治的トポロジーが、エンブレム的かつ抒情的なしかたでみごとに説明されており、とりわけ大文字の〈他者〉の審級への人間的準拠を、ここに見てとることができるだろう」。この「糸」を引いているのがまさに「神の手」である。以下を参照。L’Empire de la vérité, op. cit., p. 38(邦訳59ページ).
-
[6]
« Communication dogmatique (Hermès et la structure) »[1993], Sur la question dogmatique en Occident, Paris, Fayard, 1999, p. 29(『ドグマ人類学総説』西谷修監訳、平凡社、2007年、34ページ).
-
[7]
複数の箇所から、たとえば以下を参照。« Anthropologie dogmatique. Définition d’un concept » [1996], Sur la question dogmatique en Occident, op. cit., p. 106(邦訳93-94ページ).
-
[8]
« Les maîtres de la loi. Étude sur la fonction dogmatique en régime industriel », Annales, t. XXXVIII, no 3, 1983, p. 510-511(「法の学匠たち」森元庸介訳、『思想』1190号、岩波書店、2023年、11ページ).
-
[9]
フロイト自身が強調するように、『トーテムとタブー』の議論は、いわゆる局所論――意識、前意識、無意識――から構造論――エス、自我、超自我――への移行において決定的であった。「超自我については、我々はその発生を、ほかでもない、トーテミズムを生み出したあの体験〔原父殺し〕から導き出した」。以下を参照。ジークムント・フロイト「自我とエス」道籏泰三訳、『フロイト全集18』、岩波書店、2007年、35-36ページ。
-
[10]
ルジャンドルは〈禁止(interdit)〉を、そのラテン語源(「のあいだで言う」)を経由して「あいだに置かれる言(dire d’interposition)」と呼びなおし、「主体と最初の無差異のあいだに置かれる」ものと定義する。つまり〈禁止〉の言の設定によって差異化が生じてゆくわけである。ところで「おのおのの人間にとっては、差異化を生きること、すなわち種の法に身丈を合わせることで人間としての実質を手にすることが問題である」。ゆえにわれわれはどうしても「分割の法」、すなわち差異化を駆動する〈禁止〉の一撃を必要とするのである。以下を参照。« Communication dogmatique (Hermès et la structure) », art. cit., p. 28-29(邦訳33-34ページ).
-
[11]
Ibid., p. 29(邦訳34ページ). 強調は原文による。
-
[12]
Ibid., p. 30(邦訳34ページ).
-
[13]
L’Empire de la vérité, op. cit., p. 114(邦訳153ページ).
-
[14]
« Communication dogmatique (Hermès et la structure) », art. cit., p. 30(邦訳35ページ).
-
[15]
後者はとりわけ父殺しとして系譜的秩序に対する侵犯となる。この問題についてはとくに以下の著作を参照。Le Crime du caporal Lortie.Traité sur le Père, Paris, Fayard, 1989(『ロルティ伍長の犯罪』西谷修訳、人文書院、1998年).
-
[16]
« Communication dogmatique (Hermès et la structure) », art. cit., p. 31(邦訳36ページ). 強調は原文による。
-
[17]
L’Empire de la vérité, op. cit., p. 36(邦訳56-57ページ).
-
[18]
Le Désir politique de Dieu, op. cit., p. 150.
-
[19]
Ibid., p. 152-153.
-
[20]
« Communication dogmatique (Hermès et la structure) », art. cit., p. 59(邦訳57ページ). 強調は原文による。
-
[21]
Ibid., p.41-42(邦訳43ページ).
-
[22]
Le Désir politique de Dieu, op. cit., p. 281. 強調は原文による。
-
[23]
ラカンはセミネール第5巻『無意識の形成物』のなかで「エディプスの三つの時制」を定義しているが、その第一の時制で問題となるのが、子どもと母親の想像的=鏡像的関係である。現前/不在を繰り返す母を前にして子どもは、その事態がなにを意味するのかを問うが、やがてそのシニフィエがファルスであると想像するようになる。すなわち母親の不在の要因は、自分とは異なるファルスを欲望しているからだと合点する。そして「ひとたびそれを理解してしまえば、子どもはみずからをファルスにする(se faire phallus)ことができるようになる」。以下を参照。Jacques Lacan, Les formations de l’inconscient, Paris, Seuil, 1998, p. 175(『無意識の形成物(上)』佐々木孝次・原和之・川崎惣一訳、岩波書店、2005年、256ページ).
-
[24]
Ibid., p. 274(『無意識の形成物(下)』佐々木孝次・原和之・川崎惣一訳、岩波書店、2006年、39ページ).
-
[25]
« Le malentendu », Pouvoirs, t. XI, 1979, p. 7(「思い違い」伊藤連訳、『思想』1190号、前掲書、49ページ).
-
[26]
フランスの司教であったギヨーム・デュラン(Guillaume Durand, 1230-1296)の著作を参照している。
-
[27]
Paroles poétiques échappées du texte, op. cit., p. 201.
-
[28]
L’Empire de la vérité, op. cit., p. 29(邦訳47ページ). 強調は原文による。
-
[29]
ルジャンドルの仕事を紹介すべく昨年フランスで出版された論集のなかで、編者のひとりであるピエール・ミュッソは、「糊」と「釘」について次のような説明を施している。すなわち「釘」はそこに社会が括りつけられる象徴的ななにかであり、正統性を担保するものであるのに対し、「糊」はその正統性と規範性を貼りあわせる制度の役割を果たすものである。以下を参照。Pierre Musso, « Le concept d’institution, clef de voûte de l’anthropologie dogmatique par Pierre Legendre », Introduction à l’œuvre de Pierre Legendre, Paris, Manucious, 2023, p. 131-134(ピエール・ミュッソ「制度という概念」伊藤靖浩訳、『思想』1190号、前掲書、209-212ページ).
-
[30]
« Le malentendu », art. cit.,15(邦訳57-58ページ).
-
[31]
一般的には「母権」「母権制」と訳出される。バッハオーフェンの提起した先史像は「母系的家族形態と太母信仰を基軸とする女人統治(ギユナイコクラティー)の社会」であり、とりわけ家父長的家族形態へのアンチテーゼとして、マルクス主義の文脈で広く知られることとなった。以下を参照。臼井隆一郎「記号の森の母権論」、臼井隆一郎編『バッハオーフェン論集成』世界書院、1992年、203-243ページ。
-
[32]
Le Désir politique du Dieu, op. cit., p. 281.
-
[33]
Ibid., p. 281.強調は原文による。
-
[34]
Ibid., p. 272.
-
[35]
Ibid., p. 273.
-
[36]
Paroles poétiques échappées du texte, op. cit., p. 208. 強調は原文による。
-
[37]
« Les maîtres de la loi », art. cit., p. 527(邦訳33ページ).
-
[38]
« Le malentendu », art. cit., p. 12(邦訳54ページ).
-
[39]
Paroles poétiques échappées du texte, op. cit., p. 201.
-
[40]
前者ふたつは比較的想像に難くないが、最後の項目については辞書の掲げる示唆的な用例を原文のまま挙げておく。« Massillon, Pensée, Choix d’un état: Eh quoi ! l’art des arts, le gouvernement des âmes demande-t-il moins de talents que les occupations frivoles et les inutilités de la terre ? » (Littré, s. v. « gouvernement »).
-
[41]
こうした一連の流れについて、たとえば2015年に開催された中世史学会の内容をまとめた論集から、以下の論文を参照。Corinne Leveleux-Texeira et Annick Peters-Custot, « Gouverner les hommes, gouverner les âmes. Quelques considérations en guise d’introduction », Gouverner les hommes, gouverner les âmes, Paris, Sorbonne, 2016, p. 11-35.
-
[42]
Paroles poétiques échappées du texte, op. cit., p. 208.
-
[43]
Ibid., p. 207.
-
[44]
Ibid., p. 129.
-
[45]
Ibid., p. 211.
-
[46]
Michel Dubois, « Un art de la guerre : le marketing », Cahier de la Publicité, no18, 1967, p. 22-26.
-
[47]
スペインのイエズス会司祭で神学者でもあるバルタサール・グラシアン(1601-1658)の言葉が引かれている。以下を参照。George A. Steiner, Top management planning, New York, MacMillan, 1969, p. 732.
-
[48]
Paroles poétiques échappées du texte, op. cit., p. 211.
-
[49]
たとえばドラッカーの提唱した「ミッション・ビジョン・バリュー」という考えかたは、現代の組織戦略における有力な手法として用いられ続けている。
-
[50]
Paroles poétiques échappées du texte, op. cit., p. 209. ここでルジャンドルの念頭に置かれているのは、アブラハム・マズローの欲求階層説であり、この欲求説を下敷きに従業員のモチベーションを向上させようとする取り組みは現在でも多く見られる。たとえば大手コンサルティングファームのアクセンチュアは「Net Better Off(正味幸福度の向上)」というフレームワークを利用し、従業員の感情/精神、人間関係、身体、金銭、目的意識、雇用の6つの指標について、企業が従業員のニーズを満たせているかどうかを評価している。以下のレポートを参照。https://www.accenture.com/content/dam/accenture/final/a-com-migration/thought-leadership-assets/accenture-care-to-do-better-report.pdf
-
[51]
複数の箇所より、たとえばコレージュ・ド・フランスにおける1978年2月8日の講義を参照。Michel Foucault, Sécurité, Territoire, Population. Cours au Collège de France. 1977-1978, Paris, Gallimard/Seuil, 2004, p. 119-138(『安全・領土・人口』高桑和巳訳、筑摩書房、2007年、143-167ページ).
-
[52]
ニコラス・ローズ『魂を統治する』堀内進之介・神代健彦監訳、以文社、2016年、373-374ページ。
-
[53]
同上、372ページ。
-
[54]
Le Désir politique de Dieu, op. cit., p. 398. 強調は原文による。
-
[55]
« Communication dogmatique (Hermès et la structure) », art. cit., p. 69(邦訳65-66ページ).
この記事を引用する
大岩 可南「情念と/の〈マネジメント〉——ピエール・ルジャンドルの場合」 『Résonances』第15号、2024年、ページ、URL : https://resonances.jp/15/le-management-et-de-la-passion/。(2024年12月04日閲覧)