Résonances

東京大学大学院総合文化研究科フランス語系
オンラインジャーナル
Résonances 第15号 | 2024年11月発行
論文

「利己愛」は徳となりうるかジャン=ジャック・ルソーにおける「利己愛」の検討

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はじめに

ジャン=ジャック・ルソーによると、人は己に「自己愛(amour de soi)」と「利己愛(amour-propre)」という二種の愛情を抱く。それらは『人間不平等起源論』(Discours sur l’origine et les fondements de l’inégalité parmi les hommes)の註で以下のように定義されている。

利己愛と自己愛を混同してはならない。二つの情念は、その本性とそれらがもたらすものでまったく異なる。自己愛は自然な感情であり、すべての動物を自己保存に配慮するように仕向ける。人の中では理性に導かれたり憐みの情によって変化させられることで、人間性と徳を生み出す。利己愛は社会で生み出された相対的で人工的な感情であり、各人が他の誰よりも自分を優先するようにしむけて、人々にお互いが犯しあうあらゆる悪を思いつかせる。そして、それは名誉の真の源である[1]

つまり、「自己愛」は自己保存に配慮する自然な感情で善きもの、「利己愛」は人が社会化することで生まれる人為的な感情で悪と名誉の源ということになる。また、「自己愛」が己のみに関係する感情ならば、「利己愛」は己と他者との比較を促す感情である。ルソーの「自己愛」と「利己愛」のこのような定義は広く認められたものである。

以上をふまえて、『エミール』(Émile)第四篇における次の一節を読んでみよう。

利己愛を他者にまで拡大しよう。これを私たちは徳へと変換する。このような徳が根付かない人の心などありえない[2]

前に引用した「自己愛」や「利己愛」に関する引用を読んだ後では、ここで「あらゆる悪を思いつかせる」であろう「利己愛」が徳へと変化しうるものとして言及されていることに違和感を覚えないだろうか。実際のところ、この一節の「利己愛」は「自己愛」の書き間違いか、同意語として書かれていると考える解釈が少なからずある。その一方で、この一節で徳へと変換しうる自己への愛情が「自己愛」ではなく「利己愛」であると明言されていることを重要視する解釈もある。

ルソーの「自己愛」と「利己愛」に関する先行研究には善である自然と悪である人為という二項対立の枠組みで展開される傾向が顕著である。引用した『エミール』第四篇の一節の「利己愛」を「自己愛」と読みかえる解釈は、このような傾向の影響のもとで生まれたと考えられる。しかし、『エミール』で「利己愛は有益な道具であるが、危険である。しばしばそれを使う手を傷つけ、まれに悪をなさずに善をなす」[3]と書かれているように、ルソーは「利己愛」の有用性について言及している。それにも関わらず、ルソーの「利己愛」を単なる悪の源に還元するかのようにして、引用した一節の「利己愛」を「自己愛」とあえて読みかえる必要はあるのか。

本論では、引用した一節を出発点として、ルソーの「自己愛」と「利己愛」を検討する。まず、『エミール』の引用した一節に関する二種の解釈をその背景をふまえて概観する。これによって、ルソーの「自己愛」と「利己愛」に関する先行研究の傾向が明らかとなるだろう。次に、「利己愛」を「自己愛」と読みかえることの妥当性を検討する。そのうえで、ルソーにおいて「利己愛」は拡大されることで徳となりうるか否かを問う。

I. 『エミール』第四篇の一節に関する二つの解釈

I-1. 第一の解釈

前に引用した『エミール』第四篇の一節に対しては、相反する二つの解釈がなされている。第一の解釈は、この一節の「自己愛」を「利己愛」の書き間違いか同意語とみなすものである。このような解釈の例を以下に示す。まず、シャルベはこの一節での「利己愛」の用法が、「利己愛とは人為的な感情で、あらゆる悪を生み出すものである」という『人間不平等起源論』における定義と齟齬をきたすことを指摘して、ここでの「利己愛」は固有の意味を失い「自己愛」の同意語として使用されていると解釈する[4]。ホロヴィッツにいたっては、この一節を引用するにあたってamour-propreの英訳語であるself-loveの後ろにamour de soiというフランス語を挿入することで、この「利己愛」は「自己愛」の同意語であるという解釈を何の説明もなく示している[5]。2000年代にも、シャラクがこの一節の「利己愛」を「自己愛」の同意語と解釈している。彼によると、1762年頃よりルソーの「利己愛」は広義の「自己愛」を指すようになり、それは必ずしも人を堕落させる破滅的なものではない[6]

まず、このような解釈が生まれた原因の一つとして、ルソーのテキストに「自己愛」と「利己愛」の混同がしばしば認められることが挙げられる。たとえば、1763年に刊行された『ボーモンへの手紙』の初版では「人と共に生まれた唯一の情念、すなわち利己愛はそれ自身では善にも悪にも関知しない情念であるということを私は示した」[7]と「利己愛」に『人間不平等起源論』では「自己愛」のものとなっている定義が付与されている。これについては、1921年にセイエールが前後の文脈から判断して書き間違いであると断じている[8]。二つの『ルソー全集』である1969年刊行のプレイヤード版でも[9]、2012年刊行のスラットキン版でも[10]この一節の「利己愛」は「自己愛」に修正されている。たしかに前後の文脈から判断する限り、ここでの「利己愛」は「自己愛」の書き間違いと考えることが妥当かと思われる。さらに、同書の初版の最終頁の裏面に作者であるルソーが試し刷りを確認することができなかったと記していることも書き間違いと考える論拠の一つとして挙げることができる[11]

また、「利己愛」と「自己愛」を区別していたはずのルソーだが『エミール』では以下のように述べている。

人間にとって唯一の自然な感情は自己愛、あるいは広い意味では利己愛である。この利己愛そのものは、言い換えると私たちに関するかぎりでは、善きもので有用である。そして、それは他者と必然的な関係を持たないので、この点で自然の本性からして中立である。それが善くなったり悪くなったりするのは、それが適用されたり関係が付与されたりするからにすぎない[12]

ここで「自己愛」は「広い意味では利己愛」であると、「利己愛」の類語として言及されている。これをルソーが「自己愛」を「利己愛」の一種、その善き形態として使用している一例とみなすことができる。このような用法が認められることから、ルソーが「自己愛」と「利己愛」を区別なく使う可能性が指摘されてきた。

ルソーにおいて「利己愛」と「自己愛」は原則として区別されているにも関わらずそのテキストにおいて二つの概念の混同がまれに認められることの理由として、18世紀に二つの概念の分化が一般的に明確であったわけではないことが挙げられる[13]。フランス語において「自分自身への愛」を表す語は、当初は「利己愛(amour-propre)」のみであった。これは、アウグスティヌスの『神の国』における「自己への愛(amor sui)」に対応するフランス語である。アウグスティヌスは「自己への愛」を人を高慢にする邪悪なものとみなし、「神への愛(amor Dei)」の真逆に位置づけた。17世紀にはジャンセニスムに代表されるアウグスティヌス主義の受容の中で、邪悪な「自己への愛」に相当する「利己愛」は否定的に評価されていた[14]。しかし、その一方で、自己への愛の肯定的側面を取り上げるために「利己愛」とは区別される「自己愛(amour de soi)」という概念が導入されたのである[15]。つまり、「自己愛」という概念は、18世紀にはまだ誕生してまもない概念だったということになる。

しかし、第一の解釈が生じた理由はそれだけではない。前述したが、先行研究には「利己愛」と「自己愛」を善悪の二項対立の枠組みで解釈する傾向が根強くある。第一の解釈はこのような傾向を背景として生まれたと考えられる。本論で問題となっている一節からは離れるが、このような先行研究の傾向を示し第一の解釈との関連性も認められるものとして、『エミール』第四篇のある一節にビュルジュランがプレイヤード版で付けた註を取り上げる。まず、ルソーは次のように述べている。

彼の感受性が個人の範囲にとどまっているかぎり、彼の行動に道徳的なものは何もない。それが己を超えて広がりはじめて、彼はまず善悪の感情を、つづいてそれに関する観念を持つ。それによって、真に人となり、人類を構成する一部となる[16]

ここでは、人が善悪の感情やそれに関する観念を持つ、つまり道徳化する契機は「感受性の拡大」、つまり、感受性の範囲を自己を超え出て他者にまで拡大させることにあると述べられている。そして、この「感受性の拡大」は人が「人類を構成する一部」となる契機でもある。この一節に対してビュルジュランは以下のような註を付けている。

子供が純粋な自己愛(amour de soi)にとどまる限り、事物の必然性にしか遭遇しない自己中心主義のうちにとどまる限り、一切の道徳は考えられない。自己愛が他者へと拡大したり、他者が彼にとって重要となるとただちに、道徳は共-人間性とともに出現する[17]

ビュルジュランによると、ルソーがいうところの「感受性の拡大」とは「自己愛」の拡大であり、これによって人間は自己中心主義から脱却して他者を愛するようになり、道徳的になる。同氏によると、ルソーにおいて「利己愛」はあくまでも悪の源であり、善きものを生み出すものは「自己愛」であるから人を道徳的にするものも「自己愛」である。ゆえに、拡大されるべきは「利己愛」ではなく「自己愛」ということになる。本論でこの註を取り上げた理由は、それが本論で取り上げた『エミール』第四篇の一節の「利己愛」を「自己愛」に書き換えた内容となっていて、第一の解釈と同じ考えを示すものだからである。

さらに例を挙げると、カッシーラーも、本論で取り上げた一節については言及していないが、ルソーの「利己愛」は他者を抑圧することによってのみ満足させられるものであるとして「利己愛」の対象が自己から他者へと拡大される可能性を否定している[18]。また、ポランも『人間不平等起源論』で社会化の契機として描かれている分業の導入の根底にあるのは自己の生存に配慮する「自己愛」であり、「利己愛」は「あらゆる依存、あらゆる疎外、あらゆる従属の原則」であると、二項対立の枠組みで「自己愛」と「利己愛」を解釈している[19]。以上から、本論で取り上げた一節に関する第一の解釈は、まさに先行研究に顕著に見られる傾向を反映したものと考えられる。

 

I-2. 第二の解釈

ルソーに見られる「利己愛」と「自己愛」の混同と、「利己愛」と「自己愛」を善である自然と悪である人為という二項対立の枠組みで解釈する先行研究の影響のもとで、『エミール』第四篇の一節における「利己愛」は「自己愛」の書き間違えか、あるいは同意語であるとみなす第一の解釈が生まれたと考えられる。しかし、この一節で「利己愛」は徳へと変換されうると述べられていることを重要視する解釈もある。管見の限りでは、このような傾向はとくに日本と英米圏で1980年代から見られるようである[20]

日本では、80年代に森田信子がまさに『エミール』の本論で引用した一節を論拠として、ルソーの「利己愛」は「自己愛という自己保存を追求する自然的欲求が、相対化され社会的な形をとったもの」で社会的感受性とも呼びうるものであり、ルソーにおいては社会的関係の基礎をなすものであると解釈している[21]

90年代には、坂倉裕治が「利己愛」を悪の源と見なして「自己愛」との善悪の対立の枠組みに押し込めることに異議を唱え、ルソーの「利己愛」が両義的であることに着目する[22]。坂倉によると、自分自身のみを対象とする「自己愛」は他者に悪をなすことはないが、意図的に他者に悪をなさないわけではないから道徳的ではない。また、「自己愛」は人と動物に共通の感情であり、「自己愛」のみを持つ限り人間は動物と同じように身体的=物的段階にとどまったままである。これに対して、「利己愛」は人間が「脱自然化」して精神的かつ道徳的段階へと移行する過程で持つものだから、人間に特有である[23]。坂倉は、本論で取り上げた一節における「利己愛」の他者への拡張とは「人類愛」への変容を意味していて、これによって「利己愛」に含まれる他者への排他性が克服されると解釈する[24]

近年では、吉田修馬もルソーが「利己愛」を肯定的に論じている箇所の一例として本論で取り上げた一節について言及している。そのうえで、吉田はルソーが「利己愛」について否定的にも肯定的にも論じていることは矛盾しているように見えるが、実はルソーの「利己愛」が中立的なものであることを論証している[25]

英米系の研究者の間では、デントがこのような解釈の端緒を開いたと目されている[26]。デントは、ルソーの「利己愛」は悪の源であるだけではなく、自己が社会においてしかるべき権利を持つ主体として遇されることを他者に対して求める感情でもあると解釈する。つまり、ルソーの「利己愛」とは他者に対して己が承認されることを求める欲求ということになる[27]。また、デントは諸悪を生み出す「利己愛」を社会によって悪化した「火のついた利己愛(inflamed amour-propre)」または「いらいらした利己愛(petulant amour-propre)」と称して、原初の「利己愛」と区別してもいる[28]。そして、『エミール』の問題の一節について以下のように解釈している。「利己愛」を「他者に拡大する」とは、他者も自身と同じように「利己愛」を持つ存在、つまり自己の承認を求める存在であることを認めることである。「利己愛」は他者の承認を求めるが、これが満足させられるためにはまず他者を尊重しなければならない。その理由は、人は自らが尊重している人間に承認されてこそ、「利己愛」を満足させることができるからである。こうして「利己愛」は他者の尊重を促し、互いを尊重するという徳へと変容する[29]

デントの研究の影響の大きさは、ロールズがその講義において自らのルソー理解がデントの著作に多くを負っていると言及していることなどからも推察される[30]。また、ノイハウザーもデントの研究をふまえたうえで、ルソーにおける「利己愛」に着目している。ノイハウザーはルソーの「利己愛」は個人が他者に対して承認を要求する原動力であり、そのような「利己愛」こそ人に尊厳を付与して、動物と区別すると解釈する[31]。本論で取り上げた一節については、「利己愛」を他者に拡大するとは「利己愛」が自身に対して求めた尊厳、つまり、人としての尊厳を他者に付与することであると解釈している[32]

 

ホリーは、ここまで概観した二つの解釈のうち、第一のものを支持する人々を「伝統主義派」と称する。その理由は彼らが「自己愛」とは自然的な善き感情で「利己愛」とは人為的な悪しき感情という、先行研究に顕著な二項対立の枠組みを踏襲しているからである。これに対して、第二の解釈を支持する人々は「再解釈派」と称される。この名称は彼らが「利己愛」に悪の源以上の意味を見出そうと再解釈をしていることに由来する[33]。これら二つの名称が与える印象に反して、「伝統主義派」が「再解釈派」に乗り越えられたわけではなく、それは近年でも根強く見られる。そして、「再解釈派」への批判もある。たとえば、インバーはデントの「利己愛」に関する解釈を以下のように批判する。ルソーの「利己愛」は互いに対等な承認を求めるという解釈は、「利己愛」が他者と己を比較して、他者に対して相対的な優位を求める情念であることを考慮していない。デントの解釈は、あまりにもカントの思想をルソーの思想に投影しすぎている。また、デントは「利己愛」を自然で中立的な原初の「利己愛」と社会によって堕落させられた「火のついた利己愛」または「いらいらした利己愛」に分節しているが、実際のルソーのテキストに自然で中立的な「利己愛」に関する記述はほとんどないこともインバーは指摘している[34]。しかし、それでも「再解釈派」の解釈は「利己愛」の再考を促すものにかわりはない。

II. 拡大されるべきは「自己愛」か「利己愛」か

ここまで、『エミール』第四篇の「利己愛を他者にまで拡大しよう。これを私たちは徳へと変換する。このような徳が根付かない人の心などありえない」[35]という一節に関する二種の解釈を概観した。拡大されて徳へと変容するものは「自己愛」なのか「利己愛」なのか。以下では二つの解釈の各々を検討する。

 

II-1. 「自己愛」の拡大

まずは、「伝統主義派」と呼ばれる第一の解釈を検討する。本論の冒頭でも言及した『人間不平等起源論』における「利己愛」と「自己愛」の広く認められた定義に準ずるならば、悪の源である「利己愛」が徳と変換されうるとは考えがたく、この一節における「利己愛」は「自己愛」の同意語あるいは書き間違いと考えることが妥当となる。さらに、ルソーは「自己愛」について「人の中では理性に導かれたり憐みの情によって変化させられることで、人間性と徳を生み出す」とまで述べている。これらを根拠に、拡張されて徳となるものは「利己愛」ではなく「自己愛」であると考えることは妥当かもしれない。しかもルソーは「自己愛」が他者のうえに拡大されることで果たす役割についても以下のように言及している。

しかし、拡張する魂の力が私と同胞を同一化させ、いわば自分をその人のうちに感じさせる時、自分が苦しまないためにこそ、その人が苦しむことを望まない。私は自分自身への愛ゆえにその人に関心を持つ。そのような格率の根拠は、私に自分がどこにいると感じようとも自己充足への欲求を抱かせる自然そのもののうちにある。ゆえに、自然法の教えは理性のみにもとづくというのは真実ではないと結論する。それはもっと強固でもっと確実な基礎を持つ。自己愛から派生する人々に対する愛は人間の正義の原則である[36]

この引用は『エミール』第四篇で自然法は理性だけで定めることはできず、良心や心の支えなしでは絵空事に過ぎないと述べている一節の原註にあたる。ここでは「自己愛」が人に他者との同一化を促して、自然法の礎および正義の原則となると述べられている。ここに「徳」という語は書かれていないが、まさに社会において「徳」が果たす役割を拡大された「自己愛」が果たすことになる。

上に引用した一節における「自己愛」の他者への拡張とは、自己と他者を同一化して他者のうちに自身を見出すことである。さらに、ルソーにおける「自己愛」の拡大について検討する。次の一節を読んでみよう。

我々は生存するために己を愛さなければならない。この感情の直接の結果として、自分を保護してくれるものを我々は愛する。子供は誰もが自分の乳母に愛着を持つ。[…]まずこの愛着(attachement)は純粋に機械的なものである。己の快適さに役立つものに各人は惹かれて、それを妨げるものを拒絶する。それは盲目的な本能にすぎない[37]                  

ここでは、自己保存の感情である「自己愛」の他者への拡大について分析されている。己の生存を維持しようとする自然な感情である「自己愛」の当然の帰結として、人は己に益するものを「愛する」。こうして「自己愛」は他者へと拡張される。しかし、ルソーは子供が自己の生存を助けてくれる乳母を「愛する」場合、厳密に言うと、それは愛情ではなく「愛着」を持つことだと述べている。ルソーによると、この「愛着」とは機械的で本能的なものである。つまり、「自己愛」の拡大とは、他者を己のうちに取り込むことであり、かつ己を他者のうえに拡張することでもある。それによって人は他者に対して愛情ではなく「愛着」を抱くことになるが、それは本能的で機械的なものである。子供の乳母への「愛着」が生存するために己を愛するという「自己愛」から派生したものである限り、子供は本能の域から出ることはない。

そして、本論の冒頭で引用した『人間不平等起源論』の註で「自己愛は自然の感情であり、すべての動物を自己保存に配慮するように仕向ける」[38]と述べられていることからも、ルソーの「自己愛」は己の生存を図る自然な情念で善きものである一方で、人が動物と共有するものでもあり人に固有のものではないと考えられる。人が「自己愛」のみを持ちつづけるならば、動物と等しいままなのである[39]。人が他者のうえに「自己愛」を拡大するということは、他者を他者として愛することではなく、拡張された自我として愛することを意味する。この限りでは、人は自己保存に専心する動物としての本能に従属しているにすぎない。

しかし、「自己愛」は「人の中では理性に導かれたり憐みの情によって変化させられることで、人間性と徳を生み出す」とルソーは明言している。さらに、前述したように、「自己愛」から派生した他者に対する愛情が自然法や正義を支えるものになるとも述べている。以上から、「自己愛」から徳が派生すると考えることを否定することはできない。しかし、本論で取り上げている問題の一節に関して、「利己愛」を「自己愛」にあえて読みかえる第一の解釈こそ正しいと結論することまでは難しい。

「利己愛」が他者へと拡大されることで徳へと変容する可能性はないのだろうか。ルソーは二種類の徳について『エミール』第三篇の終盤部で次のように言及している。

一言で言えば、エミールは、自分自身に関係のあるすべての物に関する徳をもっている。社会的な徳ももつためには、ただ、それが要求する関係を知らないだけであり、彼の精神が受け入れる準備は終えている知識が欠けているだけである[40]

ここでは二つの「徳」が言及されている。一つ目の徳である「自分自身に関係しているすべての物に関する徳」をエミールはすでにもっているこれは「自己愛」から派生した徳であると考えられる。その理由は、「自己愛」とは己の生存を求め、他者のうえに拡大されても他者を拡大した己として愛するものであり、あくまでも己自身の枠内にとどまるものであるからである。そして、エミールがまだもっていない二つめの徳は「社会的な徳」である。それをもつためには「それ(=社会的な徳)が要求する関係」を知ることが必要であり、エミールはその関係を知らないがゆえに「社会的な徳」をまだもたない。エミールが知らない「その関係」とは何か。この段階でのエミールは次のように描写されている。

彼は他人のことは考えないで、他人が自分のことをまったく考えないことをよしと思う。誰にも何も求めないし、誰にも何も負っていないと思っている。彼は人間社会の中でただ一人であり、彼は自分一人だけしか頼りにしない[41]

つまり、この段階でのエミールは他者と一切の関係を持たない、孤独な状態で「人間社会の中にただ一人」あるだけである。ゆえに、エミールは他者との関係をまだ知らないと考えられる。エミールは他者との関係について知らないがゆえに、「社会的な徳」をもつことができない。つまり、「社会的な徳」をもつためには他者との関係に通じることが必要なのである。この「社会的な徳」が「利己愛」が拡大して生まれる徳であると考えるならば、本論で取り上げた一節において「利己愛」を「自己愛」と読みかえる必要はないということになる。次節では拡大された「利己愛」が「社会的な徳」となりうるかを検討する。

 

II-2. 「社会的な徳」と「利己愛」

ここまで、ルソーにおいては「自分自身に関する徳」と「社会的な徳」があることを確認した。このうち「社会的な徳」は他者との関係を知っていることを前提としている。第一の解釈にしたがって、拡大されるべきは「利己愛」ではなく「自己愛」だと仮定しよう。自己の生存を維持することに専心する「自己愛」が拡大されても、人は他者を拡張した自己として愛するだけである。そこからは「自分自身に関係のあるすべての物に関する徳」は生まれるが、他者との関係について知ることが必要な「社会的な徳」は生まれえないと考えられる。ゆえに、本節では『エミール』第四篇の問題となっている一節は「社会的な徳」について言及しているという仮説を立て、それを検証する。

人は他者との関係を知ることで「社会的な徳」をもつことができる。このことと「利己愛」は関係があるのだろうか。まず、ルソーにおける「利己愛」について確認する。よく知られた定義によると、「利己愛」とは社会によって生み出された「相対的で人工的な感情」であり、他者との比較の中で己の優越を求めるものであり、人々が互いに犯すあらゆる悪の源である。このような「利己愛」が生まれる契機について、ルソーは『エミール』で次のように述べている。

今までは自身しか見ていなかった私のエミール、自分と同じ人間たちへ投げかける最初の眼差しはエミールが彼らと自分を比較するようにする。そして、この比較が彼のうちに引き起こす最初の感情は、第一位を占めたいと望むことだ。これこそが自己愛が利己愛に変わる時点であり、それにかかわるあらゆる情念が生まれはじめる時点である[42]

エミールの「自己愛」が「利己愛」に変化する契機は、エミールが他者を見て、他者と自己を比較して、さらに他者に対する自己の優位を求めるようになったことにある。エミールが他者と自己を比較するためには、他者が自己の同胞でありながらも自己とは区別されるものであることを認識することが必要である。他者を他者として認識して、さらに、他者と自己を比較することで生まれる自身への情念が「利己愛」ということになる。つまり、この引用では他者との関係を知るということ、すなわち社会化することは「利己愛」を持つことであると述べられている。

他者を比較の対象と認識して、己が優越感を持つための道具のように扱うことを促す「利己愛」は、前述した『人間不平等起源論』の定義で明言されているように「人々にお互いが犯しあうあらゆる悪を思いつかせる」であろうと推察される。しかし、「利己愛」が果たす役割はそれだけなのだろうか。「利己愛」が果たす別の役割について、次の一節から検討する。

この本能を感情に、愛着を愛情に、反発を憎しみに変換するもの、それは我々に害をなそう、あるいは我々に益しようという明らかな意図である[43]

ここでは、他者が己に対して抱いている「明らかな意図」、つまり気づくことができる他者の意図によって、人は本能の領域を超え出ると述べられている。また、我々が愛情や憎悪といった感情を抱く契機については次のようにも述べられている。

私たちに役立つものは求められるが、私たちに役立ちたいと思うものは愛される。私たちに害するものは避けられるが、私たちを害したいと思うものは憎まれる[44]

つまり、人に感情を抱かせるものは他者が己に対してもつ感情ということになる。一人でいる人のうちに感情は生まれない。人は他者の感情に気づくことで、他者に対して相互的に感情を抱き、他者を愛したり憎んだりするようになる。人が精神的存在へと変化する契機は、互いの感情に気づくことにある。

前に引用した一節で述べられていたように、子供は乳母が自分の生存を維持するために働いてくれているから、「自己愛」を拡大させて乳母を自分の一部として愛する。または、自分に快楽を与えるものとして「愛着」を覚える。しかし、子供は乳母が自分のために働こうとする意図を持つことに気づくこと、言い換えるならば、相手が自分を優先しようとしていることに気づくことによって、乳母に愛情を抱く。他者が自分に対して役に立ちたいという意図をもっていることに気づくことは、他者が自分を優先しようとしていることに気づくことである。これによって、他者に対して自己が優先されることを望む「利己愛」の一部が満足させられると考えられる。つまり、他者の好意に気づくことで「利己愛」の一部が満たされることで、愛着は愛情に変化する。また、「利己愛」が損なわれることで、反発は憎しみに変わる。ここから、「利己愛」が人を本能の領域から超え出させ、感情を他者に対して抱くことを可能にすると考えられる。

前述したが、先行研究において、坂倉は「利己愛」を人間が精神的かつ道徳的段階へと移行する過程で抱くようになる、人間に特有のものであると述べている。また、デントによると、「利己愛」は他者に対して己が承認されることを求める欲求である。ノイハウザーも「利己愛」を個人が他者に対して承認を要求する原動力で、人と動物を区別するものと定義している。本論では、ルソーにおいて「自己愛」が生存を求めるものならば、「利己愛」は他者と己を比較して己の優位を求める、つまり、他者が己を優先することを求めるものであると考える。さらに本論では、このような「利己愛」が満足させられるか損なわれることで、人のうちに感情が生まれることを論証した。ルソーにおける「自分自身に関係のあるすべての物に関する徳」と「社会的な徳」という二種類の徳のうち、後者を持つためには、他者との関係を知らなければならない。他者との関係を築くうえで「利己愛」は重要な役割を果たす。以上から、本論では第二の解釈を支持して、『エミール』第四篇の問題の一節では「自己愛」ではなく「利己愛」が他者にまで拡大されて徳に変換されうると明言されているとみなす。つまり、ルソーの「利己愛」は悪の源ではあるが、徳にも変換されうると結論する。

「神への愛」と相反するものとして、自己への執着である「自己への愛」を否定する傾向が顕著であった17世紀とは異なり、18世紀には「自己愛」および「利己愛」を含めた「自己への愛」が全般的に認められる風潮が見られた。しかし、「利己愛」は他者に拡大されることで徳へと変容されるというルソーの主張をこのような風潮の一つとみなすことはできない。その理由は、ルソーは「利己愛」を留保なく容認しているわけではなく、その有用性に言及しつつも批判しているからである。つまり、ルソーにとって「利己愛」は徳へと変換しうると同時に悪を生み出しうるものということになる。このような結論に至ることで、ルソーにおける「利己愛」の両義性とその重要性が明らかになるだけではなく、自然と社会、善と悪の二項対立の枠組みには還元しがたいルソーの思想の一側面が垣間見られる。

では、「利己愛」が拡張されて、「徳」に変換されるとはどういうことなのか。「利己愛」の拡大について考察するにあたって、『政治経済論』(Discours sur l’économie politique)の次の一節を参照しよう。

たしかに、もっともすぐれた徳は祖国への愛によって生みだされた。この快く、いきいきとした感情は、利己愛(amour propre)の力を徳のあらゆる美しさに結びつけ、徳をゆがめずにあらゆる情熱のうちでもっとも英雄的なものにするエネルギーを徳に与える[45]

ここで、「徳」は「祖国への愛」によって生みだされ、この「祖国への愛」は「利己愛」と「徳」を結びつけて、「利己愛」のもつエネルギーを「徳」に与えると述べられている。本論では、ここで「利己愛」が「祖国への愛」を媒介として徳を支えると明言されていることに注目する。まず、この一節は、本論で取り上げた『エミール』第四篇の一節の「利己愛」は「自己愛」の同意語でも書き間違いでもないことの証左となるだろう。しかし、本論で取り上げた『エミール』第四篇の問題の一節の後には「この利害を一般化すればするほど、それはいっそう公正になる。そして、人類に対する愛は私たちにおいては正義への愛に他ならない」[46]と書かれている。ゆえに、『エミール』では、前に言及した坂倉の指摘どおりに、「利己愛」の拡張とは「人類愛」への変換を意味していると考えられる[47]。つまり、「利己愛」はその対象を個人から、個人が所属している集団に拡大することで徳となると考えられる。

おわりに

ルソーにおいて、「自己愛」は自己保存に配慮する自然な感情で善きものであるのに対して、「利己愛」は人が社会化することで生まれた人為的かつ相対的な感情で諸悪の源である。このような「利己愛」が他者へと拡大されることで徳へと変換しうると書かれた、『エミール』第四篇の一節については相反する二つの解釈がなされてきた。本論では、これらの解釈をふまえてルソーのテキストを検討して、「利己愛」は他者へと拡大されることで徳へと変換されうると結論した。このような「利己愛」は、ルソーの思想において最も枢要な概念の一つであろう。

しかし、拡大されて徳となりうるものは「利己愛」であるという結論は新たな疑問を引き起こす。まず、徳ともなりうるルソーの「利己愛」は伝統的な「利己愛」、つまり、「神への愛」と対比される、自己に執着する邪悪な「自己への愛」である「利己愛」とは異なるだろう。二つの「利己愛」の差異は何なのか。また、ルソーにとって祖国あるいは人類全体への愛が「自己愛」ではなく「利己愛」の拡張であることも重要と考える。「自己愛」の他者への拡大とは、他者を己のように愛するという、他者を自己同一化する情念の働きと考えられる。しかし、「利己愛」が拡大されて生まれる「祖国への愛」と「人類愛」はそれとは異なる。では、「利己愛」を拡大させて、人はどのように己が所属する集団を愛するのだろうか。以上の問いを今後の研究の課題としたい。

Notes

  1. [1]

    本論のルソーの著作からの引用はガリマール社プレイアード版の全集から引用した。(Jean-Jacques Rousseau, Œuvres complètes, éd.Bernard Gagnebin et Marcel Raymond, Paris, Gallimard, «Bibliothèque de la Pléiade », 1959-1996, 5 vols.)。引用箇所は、O.C.と略記して、該当巻数をローマ数字、ページをアラビア数字で示す。また、本論での日本語訳については白水社刊行の『ルソー全集』を参考にした。ゆえに、この引用箇所の表記はO.C., III, p. 219.となる。

  2. [2]

    O.C., IV, p. 547.

  3. [3]

    O.C., IV, p. 536.

  4. [4]

    John Charvet, The Social Problem in the Philosophy of Rousseau, Cambridge, Cambridge University Press, 1974, p. 85-87を参照.

  5. [5]

    Asher Horowitz, Rousseau, Nature and History, Toronto, University of Toronto Press, 1987, p. 237.

  6. [6]

    André Charrak, « Amour de soi – Amour propre », Jean-Pierre Zarader(éd.), Le vocabulaire des philosophes II. Philosophie classique et moderne (XVIIe-XVIIIe siècle), Paris, Ellipses, 2002, p. 721-722を参照.

  7. [7]

    Jean-Jacques Rousseau, JEAN-JACQUES ROUSSEAU, CITOYEN DE GENEVE A CHRISTOPHE DE BEAUMONT, Archevêque de Paris, Duc de St. Cloud, Pair de France, Commandeur de l’Ordre du St Esprit, Proviseur de Sorbonne, ETC., Amsterdam, Chez MARC MICHEL REY, 1763, p. 15.

  8. [8]

    Ernst Seillière, Jean-Jacques Rousseau, Paris, Librairie Garnier frères, 1921, p. 137-139を参照.

  9. [9]

    O.C., IV, p. 936.

  10. [10]

    同書にはプレイヤード版にはあった初版への言及すらない。Raymond Trousson et Frédéric S. Eigeldinger, (dir.), Œuvres complètes de J-J. Rousseau, VIII, Genève, Editions Slatkine, 2012, p. 1186を参照.

  11. [11]

    O.C., IV, p. 1875-1876を参照.

  12. [12]

    O.C. IV, p. 322.

  13. [13]

    坂倉裕治『ルソーの教育思想 利己的情念の問題をめぐって』風間書房、1998年、80ページを参照.

  14. [14]

    同書、30ページを参照.

  15. [15]

    「利己愛」と「自己愛」という概念はアバディーが区別したことが広く知られている。実際のところ、アバディー『自己認識の技術、あるいは道徳の源泉の探求』(1692)は17世紀末から18世紀にかけて版を重ね、『百科全書』のイヴォンが執筆した「利己愛」の項目も同書に負うところが大きい。また、ルソーの「自己愛」と「利己愛」にもアバディーの影響が見られることをモージィとノイハウザーが指摘している。O.C., III, p. 1376 ; Jacques Abbadie, L’Art de se connaître soi-même ou la recherche des sources de la morale[1692], Paris, Fayard, « Corpus des œuvres de philosophie en langue française », 2003, p. 147-151 ; Robert Mauzi, L’Idée du bonheur dans la littérature et la pensée française au XVIIIe siècle, Paris, Armand Colin, 1965, p. 637 ; Paul Foulquié, Dictionnaire de la langue philosophique, Paris, P. U. F., 1962, p. 27-28 ; Fredrick Neuhouser, Rousseau’s Theodicy of Self-Love. Evil, Rationality, and the Drive for Recognition, Oxford, Oxford University Press, 2008, p. 31 ; 佐々木健一『フランスを中心とする一八世紀美学史の研究 ウァトーからモーツァルトへ』岩波書店、1999年、426ページを参照. しかし、坂倉はヌーシャテル図書館に残された資料からルソーへのヴォーヴナルグの直接的な影響も指摘している。Luc de Clapiers marquis de Vauvenargues, Introduction à la connaissance de l’esprit humain [1747], éd. Jean Dagen, Paris, Garnier Flammarion, 1981, p. 86 et 111; 坂倉裕治、前掲書、99ページを参照.

  16. [16]

    O.C., IV, p. 501.

  17. [17]

    Pierre Burgelin, note 3, O.C.,IV, p. 1464.

  18. [18]

    エルンスト・カッシーラー『ジャン=ジャック・ルソー問題』生松敬三訳、みすず書房、みすずライブラリー、1997年、44-45ページを参照.

  19. [19]

    Raymond Polin, La politique de la solitude. Essai sur J.J. Rousseau, Paris, Editions Sirey, 1971, p. 25 et 49を参照.

  20. [20]

    以下に言及する日本人研究者の著作の参考文献一覧から、日本における「利己愛」を再考する研究は英米圏の研究の影響を受けたわけではないと考えられる。また、英米圏の研究者が日本の研究者の影響を受けた形跡も認められない。つまり、双方において、「利己愛」を再考する機運は別々に起こったと考えられる。

  21. [21]

    森田信子『子どもの時代』、新曜社、1986年、80ページを参照。 しかし、ここで森田が「利己愛」が社会的関係の基礎となる論拠を充分に説明しているとは言いがたい。

  22. [22]

    坂倉裕治、前掲書、97ページを参照。

  23. [23]

    同書、142ページを参照。

  24. [24]

    同書、249ページを参照。

  25. [25]

    吉田はamour-propre を「自尊心」とamour de soi を「自愛心」と訳出している。吉田修馬「ルソーにおける自尊心の問題」、『エティカ(Ethica)』、vol. 6、2013年、1-17ページを参照。

  26. [26]

    Avner Inbar, « The Rehabilitation of Amour-Propre », History of Political Thought, vol. 15-3, 2019, p. 460を参照.

  27. [27]

    このようなデントの見解はカントの影響を強く受けている。カント『たんなる理性の限界内の宗教』によると、人間は三つの素質を持つ。第一の素質は自然的で機械的な自己愛から生まれる自己保存と他者との共同生活を求める傾向性である「動物性の素質」、第二の素質は他者との比較によって満足を得る自己愛から生まれる「他人の意見において自分に価値を与えようとする傾向性」である「人間性の素質」、第三の素質は道徳的法則を選択する道徳的感情ともみなされる「人格性の素質」である。デントは、このうちの「人間性の素質」がルソーの「利己愛」に相当すると考える。この「人間性の素質」は、平等に扱われることを求めるがゆえに他者の自己に対する優越を認めようとはせず、それを避けるために他者に対して自己の優越を確立したいという欲望を生み出すものである。エンマニュエル・カント「たんなる理性の限界内の宗教」北岡武司訳、『カント全集 10』岩波書店、2000年、34-37ページを参照。

  28. [28]

    J.H. Dent, A Rousseau Dictionary, Oxford, Blackwell Publishers, 1992, p. 33-36を参照.

  29. [29]

    J. H. Dent, Rousseau: An Introduction to his Psychological, Social and Political Theory, Oxford, Basil Blackwell, 1989, p. 144を参照.

  30. [30]

    John Rawls, Lectures on the History of Political Philosophy, Samuel Freeman, Cambridge, Massachusetts, and London, The Belknap Press of Harvard University Press, 2007, p. 198を参照.

  31. [31]

    Fredrick Neuhouser, op. cit., p. 2を参照.

  32. [32]

    Ibid., p. 223-224を参照.

  33. [33]

    Jared Holley, « The aesthetic dimensions of esteem in Rousseau: amour-propre, general will, and general taste », British Journal for the History of Philosophy, 2022, DOI:10.1080/09608788.2022.2028601 https://doi.org/10.1080/09608788.2022.2028601 (2024年3月20日参照)

  34. [34]

    Avner Inbar, art. cit., p. 458-483を参照.

  35. [35]

    O.C., IV, p. 547.

  36. [36]

    O.C., IV, p. 523.

  37. [37]

    O.C., IV, p. 492.

  38. [38]

    本論の「はじめに」を参照.

  39. [39]

    本論の「I-2. 第二の解釈」で述べたように森田と坂倉も同様の解釈を示している。

  40. [40]

    O.C., IV, p. 488.

  41. [41]

    O.C., IV, p. 488.

  42. [42]

    O.C., IV, p. 523.

  43. [43]

    O.C., IV, p. 492.

  44. [44]

    O.C., IV, p. 492.

  45. [45]

    O.C., III, p. 255.

  46. [46]

    O.C., IV, p. 547.

  47. [47]

    ルソーにおいて「人類愛」と「祖国愛」は両立できないため、『政治経済論』と『エミール』の記述は一見すると矛盾している。しかし、『政治経済論』では「市民」の教育論が、『エミール』では「人間」の教育論が展開されていることを考慮すると、ルソーの記述に整合性を認めることができる。O.C., III, p. 707を参照.

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西川 純子「「利己愛」は徳となりうるか——ジャン=ジャック・ルソーにおける「利己愛」の検討」 『Résonances』第15号、2024年、ページ、URL : https://resonances.jp/15/amour-proopre-de-rousseau/。(2024年12月04日閲覧)

執筆者

所属:東京大学教養教育高度化機構国際連携部門 特任研究員
留学・在学研究歴:東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学。博士(学術)。パリ第十大学・ストラスブール第二大学留学。

フランス語要旨résumé

L’« amour-propre » peut-il se transformer en vertu ?

Essai sur l’« amour-propre » de Jean-Jacques Rousseau

Junko NISHIKAWA

 

Selon J-J. Rousseau, les hommes sont habités par deux sortes d’amour envers eux-mêmes : l’« amour de soi » et l’« amour-propre ». L’auteur définit le premier comme sentiment naturel concernant la conservation de soi et le second comme sentiment artificiel demandant la suprématie sur les autres. Le premier s’inscrit dans l’ordre de la nature et est toujours bon. En revanche, le second cause les conflits parmi les hommes et est considéré comme l’origine de tous les maux.

Concernant ces deux passions, une phrase d’Émile de Rousseau suscite une controverse : « Étendons l’amour-propre sur les autres êtres, nous le transformons en vertu et il n’y a point de cœur d’homme dans lequel cette vertu n’ait sa racine. » Certains lisent cette phrase en remplaçant l’« amour-propre » par l’« amour-de-soi ». D’après eux, Rousseau utilise l’« amour-propre » comme synonyme de l’« amour de soi ». Selon d’autres, cette phrase exprime succinctement la pensée morale de Rousseau : l’« amour-propre » peut se transformer en vertu.

Si l’on s’appuie sur la compréhension la plus répandue de ces deux concepts, la première interprétation semble raisonnable. Cependant, tant que les hommes s’adonnent à l’« amour de soi », ils se replient sur eux-mêmes, car l’« amour de soi » entraîne les hommes dans l’autarcie. À l’inverse, la naissance de l’« amour-propre » requiert la présence des autres et il incite les hommes à nouer des relations avec leurs semblables. De ce fait, ce n’est pas l’« amour de soi » mais l’« amour-propre » qui s’étend sur les autres hommes.

Ainsi, nous aboutissons à la conclusion qu’il n’existe aucun lapsus dans cette phrase ; ce n’est pas l’« amour de soi », mais l’« amour-propre » même ‘qui s’étend sur les autres et se transforme en vertu.

pour citer cet article

NISHIKAWA Junko, « », Résonances, nº 15, 2024, pp. , URL : https://resonances.jp/15/amour-proopre-de-rousseau/, page consultée le 4 décembre 2024.