人間は自然に還せるかビュフォンにおける内的感官の二重性
はじめに──身体的かつ精神的な人間
一八世紀フランス生命科学において「人間」とは何か──この問いにただちに答えようというのではなく、しかし念頭には置きながら、ひとまず、人間は精神と身体からなる存在であったとだけ述べておこう。人間はこの二つの側面をひとりのうちに統一する、身体的かつ精神的なものであった。してみると、人間の観念を構成する二つの着想を腑分けし、二つの視点を見出してみることができる。
ひとつには自然学的な(physique)視点がある。人間の身体的側面に重点を置き、他の生物と同様に、物質の地平に身を置いて、ときにその精神現象まで含めて身体の側から考察する視点である。例えばこの頃、身体的(physique)原理をもつ唯物論的な理性の概念が現れてきたことにこの視点は極まる[1]。人間はその特権的な地位をだんだんと追われつつあり、いうなれば、自然に送り還されるのである。この視点を人間の自然化と呼ぶことにしよう。
これに対して、人間の精神的な(moral)面に視線を注ぎ、理性的霊魂(âme rationnelle)のはたらきを分離させつつ論じようとする視点がある。人間は他の存在者とはまったく異なる精神性をもつのだと認め、精神は物体のしたがう諸法則に完全に従属するのではないと主張する。この脱自然化の視点のもと、生まれつつある人間学とともに、人間の種別性は、その他に対する優越を認めるか否かの問題も含めて、哲学的な争点となっていた[2]。
人間は、他のすべての存在者と同様に自然に含み込まれる部分であり、他方で、少なくとも部分的には非物質的で精神的な存在として他から截然と区別されるものでもある。人間の自然化と脱自然化の二重の運動とその相剋を、われわれは、一八世紀フランスの自然誌家ジョルジュ=ルイ・ルクレール・ビュフォン(Georges-Louis Leclerc Buffon, 1707-1788)の人間学における内的感官(le sens intérieur)という言葉のうちに認める。
ビュフォンにおける内的感官は、一方で非物質的な人間の霊魂に位置づけられ、他方で人間を含めた動物のひとつの身体器官であるとされる。この矛盾を暴き糾弾したいのではない。そうではなくて、この言葉の二重の内実の各々が、どのような要請に応えるかたちで生じてきたのかを明らかにする。そうして、一八世紀フランスの自然誌における「人間」の揺動を指し示してみたい[3]。
まずは、ビュフォンの自然観と自然誌の方法を確認し、人間が自然誌を行う主体でありかつ自然のうちにある対象でもあるという事態の消息をたどる。次いで、霊魂に位置づけられる内的感官の役割を示し、またそれによって人間についてのいかなる認識が得られるのかを明らかにする。最後に、物質的な内的感官の機能と役割、またそれがどのように導出されるのかを示したうえで、内的感官というひとつの言葉がはらむ二重性をどのように理解すべきかを明らかにする。
1. 方法と人間の自然化
自然誌は、文字どおり自然を対象とする学知である。自然を記述し、諸事物を分類するこの学問の枠組みのなかで人間を論じるためには、人間というものを、非人間的な諸対象と同様に自然誌の方法にしたがって扱われうる対象と考える必要がある。つまり人間は、自然のうちにあるひとつの対象であると同時に、自然誌を行う主体でもなければならない。この二面の実現を人間の認識論的な自然化と呼ぶことにして、この自然化がなされる過程を、特にビュフォンにおける自然の観念と方法の観点からたどっていくことにしたい。
ビュフォンの『自然誌』の時代的な背景に目を向けるなら、そもそもこの時代、人間の自然学的な研究の要請が高まっていた。形而上学、論理学、倫理学および自然学という哲学を構成する諸分野のなかで、その自然学的側面が強調される傾向が強まっていたのである。この傾向は、情念を身体の側から論じたデカルトの『情念論』の構想のなかで、精神的な現象に対する自然学的観点の優越によってすでに示されていたといえる[4]。人間は自然学によって汲み尽くされうるという主張が主流であったといいたいのではないが、少なくとも、身体的かつ精神的な統一をもつ人間について、自然学的な研究がぜひ必要であると看做されてはいたのである。
このことは、一八世紀に出版されたいくつかの書籍の表題にも見てとれる。例えば医学の領域において、いわゆるモンペリエ学派を代表する医師のひとりであるルイ・ド・ラ・カーズが1755年に出版した『身体的かつ精神的な人間の観念』(L’Idée de l’homme physique et moral)が示しているように、一八世紀半ばにおける人間をめぐる思考のひとつの雛形は、身体的な位相と精神的な位相を併置し、ひとつの全体として統一された人間を対象とするものだった。自然学としての哲学のなかで人間を考察する視座はすでに一般的なものであったと述べてよい[5]。さらに時代を遡れば、1709年に出版されたアントワーヌ・モーべの『人間の理性と情念の身体的諸原理』(Principes physiques de la raison et des passions des hommes)がある。この本は、理性の身体的・自然学的原理を示そうとする点で、ラ・カーズよりもいっそう過激である[6]。例えばラ・メトリの唯物論医学なども無視できないが、ここでは、人間の身体的側面と精神的側面をことさらに分離せずに、統一的かつ自然学的に探求する視座が要請されていたのだとだけ指摘しておきたい。
以上のような背景を踏まえれば、広範な主題を含むビュフォンの『自然誌』は、自然学が前景化した哲学であると考えることもできる。そうだとすれば、いわゆる哲学に属する存在論や認識論を展開することが要請されるだろうし、実際ビュフォンは、総論的なものと個別的な記述との区別なく、『自然誌』のなかで哲学的な議論を展開する[7]。自然誌のなかで、身体的かつ精神的な人間の理性や知性、さらには言語や社会性といった諸能力が、自然学的に検討される必要があった。人間を統一的な「ひとつの全体」として考えることを基礎として、人間を主体ではなく対象と看做す言説としての人間学が独立してくると論じたのはミシェル・ドゥシェであったが[8]、端的にいえば、「人間の自然誌」(Histoire naturelle de l’homme)が書かれなければならなかったのである。人間を自然のなかに置き入れ、そのうえで、自らの方法にしたがい研究すること、つまり、人間の自然化・対象化の要請である。
このようにして人間を自然に還す必要があるのだとして、この自然とはいかなるものか、また、人間を含めた自然に取り組む自然誌の方法とはどのようなものとなるのか。このことに関して、「自然誌を研究し論じる仕方について」という副題がつけられた「第一論文」を検討したい。『自然誌』第1巻(1749年)の劈頭にあるこの小論を、ジャック・ロジェは「新たな『方法序説』」と呼んだが、ここでビュフォンは自然の観念と自然学の方法を提示している[9]。
まず指摘しておくべきは、ビュフォンの自然観念の基底には「存在の連鎖」があるということだ。アーサー・O・ラヴジョイの名高い研究で掘り起こされたこの観念は、一八世紀においてはありふれたものだったが、ビュフォンもまた、ライプニッツ的な自然の充実性と連続性とを採用する[10]。
この「存在の連鎖」は、ビュフォンにおいては「知覚しえない微細な差異(nuances imperceptibles)」という言葉を用いて言い表される。自然はこのような差異に満たされており、截然とした区分が自然それ自体のうちに実在すると考えてはならない。被造物の総体としての自然は、その内部にいかなる分割も実在しない連続性をもつのである。
もっとも完全な被造物からもっとも不完全な物質にいたるまで、すぐれて組織化された動物からまったく生のままの鉱物にいたるまで、ほとんど感覚しえない度合いをとおして降っていくことができるのを、人間は驚きをもって見るだろう。これらの知覚しえない微細な差異は、自然の偉大な所産である[11]。
自然の連続性は自然のなかの無階層性をただちに意味するわけではないから、いうまでもなく人間は「もっとも完全な被造物」であり、鉱物は動物や植物に対してより下位に置かれる。しかし、この区分の境界に目を向ければ、人間によって練りあげられてきた分類に収まらない何者かが必ず現れる。「自然のうちには本当には個体しか存在せず、類や秩序、分類というものはわれわれの想像力のなかにしか存在しない」[12]というすぐれて唯名論的な主張が示しているのは、類や種の分類は人為的なものにほかならないということであり、人間もまたこの連続性のうちに、ただしこの連鎖の端のほうにあるということでもあり、さらにいえば、個体を、すなわち自然のすべてを汲み尽くすことなどできないという諦念である。だから、「分割が一般的になるほどに、これら分割に含まれる二つの事物の本性を分かちもつ中間的な対象に出会う危険は少なくなる」[13]のであり、反対に、分類の網目が細かくなるほど境界的な事例に出くわす危険が増すのは、とりもなおさず、自然は分割されない連続的なものであるからにほかならない。
したがって、このような連続的な自然を対象とする学である自然誌は、ジャック・ロジェが適切に定式化したように、「この自然に人為的な統一を与えること、[…]知覚しえない微細な差異によってのみ分離されうる諸部分からなるひとつの全体のなかに分類を導き入れること」[14]を志すものとなる。自然の内部にある差異が究極的には知覚しえないものであり、そこに連続性がある以上、自然の全体は秩序づけられているのだとしても、自然において現前している結果の総体を十全に認識することはできないし、自然の記述や分類を最終的に完遂することもできない。他方で、自然を産出する第一原因もまた、自然誌の対象から排除される必要がある。そもそも有限な人間には、いかなる仕方であれそれを認識することはできないのだから。「第一原因はわれわれには永遠に隠されたままだろう。また、これらの原因の結果全体を認識することは、第一原因そのものを認識するのと同じくらいに困難だろう」[15]。こうビュフォンは書く。
一般的な原因や結果の認識を望むことを戒めるなら、自然誌にできるのは、いくつかの個別的な結果を知覚し、それらを比較し、組み合わせることだけであり、諸事物の存在そのものと一致するというよりは、人間自身の本性と相関的な秩序をそこに認めることだけである[16]。個別的な結果の知覚から認識を積み上げていくことで、より一般的な認識への道を歩み続けるほかない。ビュフォンにとって自然誌は、有限な人間が未知なる自然の部分的な解明を積み重ねていくものであり、そのことによって、人間とかかわるかぎりでの秩序を自然のうちに見出し、置き入れていくことなのである。
しかし、このように自然の連続性を措定し、秩序や分類の人為的な性格を強調するビュフォンの自然誌は、学知として何らかの真理に到達しうるのかと訝しみたくもなる。ビュフォンはこの類の問いに対して、自然誌が求める真理を「自然学的真理」として明確に規定している。
それは明証的な数学的真理ではない。ビュフォンによれば、「数学的真理は定義ないし仮定の厳密な反復にすぎない」[17]。それは数学者自身が定めた仮定から、外的な対象との関係を一切もたずに導かれるものであり、極言すれば、数学的真理は認識する人間のうちにしか存在しない。「数学的真理は仮定そのものよりも実在的でない」[18]のであって、「数学的な結果の論証(démonstration)がわれわれに教えてくれるのは、われわれがすでに知っていることだけであろう」[19]と手酷い批判が投げかけられる。きわめて内向的な数学的真理は、認識主体とは別のものでありかつその主体と相関的なものである諸対象に取り組む自然誌が求める学知とはほど遠いところにある。
これに対してビュフォンがあたえる自然学的真理は、明証性ではなく確実性に基礎を置く。この真理は、以下のように素朴にも思える仕方で定義される。
自然学的真理は事実にのみ依拠する。類似した諸事実の系列にのみ、あるいはお望みなら、同じ出来事の頻繁な反復や間断なき継起が、自然学的真理の本質をなすのである。したがって、自然学的真理と呼ばれているものは蓋然性にほかならない。ただし、確実性と等しいほどに大きな蓋然性である[20]。
自然によって産出される諸事実が、一定の条件のもとでは際限なく繰り返されるとき、この事実は自然学的真理として認められる。どれほどの蓋然性があればそれは確実性をもつといってよいのかをビュフォンは詳らかにしないが、彼が、いつもそのようであること、いつもそのようであると見えることを自然学的真理として認めることにすると述べていることはわかるだろう。「学知を前進させる唯一かつ真の手段は、その対象となる事物の記述と歴史(histoire)に専心することである」[21]と書くビュフォンにとって、自然誌は、自然の諸事物が人間に対して示す膨大な事実を地道に記述し、それら事実が現れる蓋然性が確実性の域にまで高まったとき、それを自然学的真理として記録する、文字どおりの自然の記述なのだ。
事実に依拠して自然学的真理を打ち建てるためには、諸事実の不断かつ精細な観察が必要であり、それにもとづいて、類比による比較および諸事実間の関係の措定を行い、さらに実験によって検証をする必要がある[22]。ビュフォンにおける自然誌の方法はこのような段階を踏み、その繰り返しによって、個別的な自然学的真理を積み重ね、さらにそれらのあいだの関係を確かめるのである。自然誌はこの営みを際限なく続けていく。
ここにおいて、人間の認識論的な自然化の要請がもつ困難と、その解決とがともに立ち現れる。あえて確認をしておくなら、諸事実を観察し、類比によって関係づけ、実験を行い、自然学的真理を獲得する主体、自然誌を行う主体は人間でしかありえない。人間こそが自然に秩序をもちこみ、諸事物を分類し、もろもろの自然現象がしたがう諸法則を明らかにする──というより、作り上げる。そのうえ、学問を行う主体である人間は、「存在の連鎖」を想定する以上、自然のうちで他の諸対象と連続的なひとつの対象でもある。どちらの人間も、他の諸事物と同じく自然の連続性のうちにあるのだ。そうだとすれば、自然のただなかにあるはずの人間は、どうして自然それ自体を対象化することができるのか。
このことに関してまず重要なのは、自然誌の方法の基礎にある事実の観察は、人間の五感によって、その感覚器官によってなされるほかないという事実である。第一原因の認識が自然誌の試みから追い出されるのは、自然学的真理へといたる道の始点にあるのが観察であり、すでにして結果として構成されている人間の感覚器官であるからにほかならない。「われわれの感官はそれ自身われわれが認識していない諸原因の結果であり、感官が与えてくれるのはひとえに結果の観念で、原因の観念は決して与えられない」[23]とビュフォンは述べるが、これは、人間の感覚器官が、認識すべき自然の諸成因と同様に物質からなることによる。この点において人間は他の諸存在者と連続的である。認識すべき自然のただなかに人間自身がおり、人間もまた自然の結果にほかならないこと、このことが人間自身の有限性なのだ。真理にいたるためにはまず感官をもっており、それを用いることが最低限の条件となるが、認識の主体たる人間は、それが自然のうちにあるかぎりにおいて、制限を加えられなければならないのである。
しかしひるがえって、この制限を引き受け、人間の有限性を前提として、先に示したような自然に取り組むための方法を採用するからこそ、人間は対象であると同時に主体であることができる。自然の連続性のただなかにあって、対象との同質性を保ちつつ、しかしそこから部分的に身を引き剥がして、自然学的真理を探究することができる。感官は、自然を認識するための起点であると同時に、それが他の諸対象と同様に自然の結果であることによって、人間と自然を分節する蝶番でもあるのだ。
こうして人間は認識論的に自然化される。自然誌は、それを実践する主体である人間にとっての真理を提示する。人間は、自身との連続性のうえにあるあらゆる事物を、やはり自然の産物である感官を介することで部分的に知覚し、記述し、自然学的真理を得る。あらゆる人間学と同様に、ビュフォンの人間学においても、人間は主体であると同時に対象でもあるというある種の自己関係があるが、そのうえここで人間は連続的な自然のうちにあるから、「人間の自然誌」は、自然のなかの人間が、同じく自然のなかにある人間についての真理を見出すものにほかならない。自らの感官によって自らを認識する自己関係的な反省の行為が「人間の自然誌」である。だから人間は、その種別性があるのだとして、まさに自然の連続性のうちにある感官を用いることを基礎として、動物や植物を相手にするときと同じように、その自然学的真理をいわば下から積み上げるようにして導き出さなければならないのである。
ジャン・エラールは、「啓蒙の世紀は人間本性(nature humaine)を信じなければならなかった」[24]と記している。ビュフォンも例外ではない。彼もまた、人間の本性を信じ、「人間の自然誌」において、これを取り出そうと努めるのだ[25]。
2. 霊魂と内的感官──人間の脱自然化
「人間の自然誌」は『自然誌』第2巻に収められており、「第一論文」が収録された第1巻と同じ1749年に出版された。この第2巻には「動物の一般誌」(Histoire générale des animaux)も併録されており、いずれも、ビュフォンの人間学において、特に人間の種別性をめぐる問題に取り組む理論的な著作としてきわめて重要なものである。
「人間の本性について」(De la nature de l’homme)は「人間の自然誌」の冒頭にある。同巻に併録されている「動物の一般誌」の内容を考え合わせても、ここで問題になっているのは、知覚しえない微細な差異に満たされた自然のなかで、いかにして人間を動物から種的に弁別するか、ということである[26]。人間本性を信じるならば、自然の連続のうえに不連続を打ち建てなければならず、これが「人間の自然誌」である以上、この不連続は自然学的真理でなければならない。しかし、あらかじめ述べておくなら、人間の種別性の導出に関してビュフォンは、「第一論文」で定められた自然誌の方法を忠実に守るわけではない。内的感官の観念は、ここにおいて、人間の自然学的記述をなすはずの「人間の自然誌」のなかで、なお特異な人間の種別性を論じるために重要な役割を果たすものである。
端的に述べれば、人間の種差をなすのは霊魂である。霊魂が存在するかぎりにおいて思考や反省があり、またそれに基づく言語の使用や社会性がありうる。ビュフォンにとって霊魂は、「単純で、分割不可能で、思考という変様によってのみ立ち現れる」[27]ものであり、すなわち非物質的なものである。霊魂を備える人間に対して、「動物は反対に純粋に物質的な存在である」[28]。そして、「霊魂は意志し、命令するが、身体は能うかぎりそれにしたがう」[29]。霊魂は身体に対して優位に立ち、それゆえに、霊魂をもつ人間は身体しかもたない動物に優越する[30]。そのうえ、霊魂が非物質的なものであるかぎりにおいて、動物は定義上この閾を決して飛び越えることができない。フランク・タンランが述べているように[31]、動物性の限界はここにあるのであって、人間と動物のあいだの懸隔は、知覚しえない微細な差異に満たされたものではないのである。「たしかに人間は、物質的でもあるがゆえに動物と類似しており、自然のすべての存在者の目録のうちでそれを考えようとすれば、動物界に分類せざるをえない」[32]。しかし、非物質的な霊魂をもち、動物にはなしえない思考を行うことができるということは、「人間が異なる本性をもち、人間だけでひとつの例外的な分類(une classe à part)をなしていることの明白な証拠」[33]なのである。
さらにいえば、霊魂がはたらくのは思考という形式においてのみであり[34]、その存在はひとえに思考によってわれわれに対して明らかになる。このことが意味しているのは、霊魂には、人間がもつその他の諸能力が付随しないということである。実際ビュフォンは、霊魂の存在という真理について以下のように書く。「この真理は、われわれの感覚、想像力、記憶、その他関連するすべての能力から独立している」[35]。人間にとって、感覚や想像力、記憶は本性的な能力ではなく、裏を返せば、動物にこれらの能力が備わっていようとも、人間の名誉はいささかも毀損されることがない。このような論の運びは、思考を本質とする精神と延長である物体とを区分する二元論をとったデカルトに近い。つまりビュフォンは、思考を除いた生命の諸特性を身体の側に押しやっているのである[36]。またこの振る舞いは反アリストテレス的でもある。というのも、生命的(植物的)霊魂、感覚的(動物的)霊魂はなく、それらはいずれも物質的な原理であるとしたうえで、知的な能力を非物質的な原理として霊魂と名指し、それを人間にのみ与えるのだから[37]。
こうしてビュフォンは、人間の表象に関して、非物質的な霊魂と身体からなる二元論を採用して人間を他の被造物から決定的に分離しつつ、霊魂の能力を思考に限定し、人体以下の自然の連続性を最大限に保つ。この意味で「人間の内部は二重である」のであって、人間は「ホモ・デュプレックス(Homo duplex)」である[38]。人間本性の限界を知性ないし理性(ビュフォンにおいて両者は明確には区別されない)に定め、ここに動物性の越えがたい閾を置くことでビュフォンは、人間の自然学的な研究を身体に限定的に、かつそこに多くを割り当てることで十分に保証し、同時に、人間の尊厳を保とうとするのだ。
ここで問題にしたいのは、霊魂が人間の種別性をなすというそのことをいかにして認識するか、ということである。自然誌が自然についての学知であり、それが人間にとってという留保つきで自然学的真理の獲得を目指すものであるかぎり、以上のことは、やはり事実の観察によって、感官によって示されるのでなければならない。内的感官はこの文脈で、「人間の本性について」の最初の段落に現れる。少し長いが、引用しよう。
自然によって、ひとえにわれわれの保存のためにある諸器官を与えられていながら、われわれはそれらを外界の印象を受け取るためだけに用いており、自らを外側へと広げ、外部に存在しようとするばかりである。われわれの感官の諸機能を増やし、われわれの存在の外的な範囲を増大させようと努めるあまり、われわれがこの内的感官を用いることは滅多にない。この器官は、われわれをその真の次元へと縮減し、われわれ以外のすべてのものから分離する。しかしわれわれは、自分自身を認識したいと望むならこの感官を用いなければならないし、これだけが、われわれについて判断することのできる唯一のものなのである。それにしても、いかにしてわれわれは、この感官を活動させ、展開させることができるのか、この感官が存する霊魂を、われわれの精神のあらゆる錯覚から引き出すことができるのか[39]。
ここで内的感官はたしかに、「外界の印象を受け取る」他の諸感官と並べられつつ、しかし特別の位置に置かれる。つまり、身体に存する感覚器官とは別に、内的感官ははっきりと、霊魂に位置づけられるのである。内的感官は、人間をその「真の次元」へと縮減し、人間以外のすべてのものを引き離す。いうまでもなくこの真の次元とは霊魂であって、霊魂が非物質的なもの、すなわち分割不可能なものである以上、極言すれば、内的感官は霊魂の部分ではなく霊魂そのものであり、あるいはその変様である。したがって内部感覚とは、霊魂による霊魂自身の知覚にほかならない。
内的感官は、認識の基礎となる感官が通常向いている外界を遮断する。そうすることで自らの内部を省察し、霊魂の存在を確信する。先に触れたように、霊魂は、「思考であるところの変様によってのみ立ち現れる」。ビュフォンによれば、「思考によるのとは別の仕方で霊魂を知覚することは不可能である」[40]から、内的感官によって確かめられるのは、自らが思考しているというそのことであり、そして霊魂が人間の「真の次元」である以上、内的感官によってもたらされる感覚は存在の感覚にほかならない。やはりデカルト的な着想をもってビュフォンは、「存在することと思考することは、われわれにとって同じことなのだ」[41]と断言する。
さらに、内部感覚はおそらく、反省そのものでもある。というのも、霊魂は思考という変様をとおしてのみ自分自身に対して立ち現れるのであって、内的感官による霊魂そのものの知覚は、とりもなおさず、自らの思考そのものの感覚であり、自己のなかでの二重性だからである。ビュフォンは反省を思考の本質と考えており、両者は別のものではない[42]。したがって、繰り返しになるが、思考、反省、内部感覚、これらはすべて、霊魂が非物質的なものであるかぎりにおいてその変様であり、すべては同じものなのだ。
こうして、内的感官によって、「われわれの霊魂の存在が、われわれに対して論証される(démontrée)」[43]。ここで着目すべきは、この真理は、ビュフォンが規定した自然学的真理では決してないということである。たとえ事実にもとづくと述べることができるとしても、これは先に定められた真理への方法を踏襲していない。むしろ、「論証される」という語が示唆しているように、このことは数学的真理にかぎりなく近い[44]。現にビュフォンは、「この真理は内奥からくるものであり、直観以上のものである」[45]と述べる。外界を遮断した内的感官によって自己の内部へと沈潜し、そこから霊魂を導き出しつつ、しかしこの霊魂と内的感官とは同じものであるというのだから、ビュフォンは自然誌の作法に形式上のっとりながら、しかし結局、前提のうえに立ち、そこから外には出ずに真理を獲得するのである。
このことを非難しようというのではない。ただ、「人間の本性について」でビュフォンが踏む手続きは、彼が批判した数学的真理と同様に、「定義ないし仮定の厳密な反復にすぎない」。ビュフォンにとっては、非物質的な霊魂の存在、さらにいえば人間における知性の存在とそれによる優越がすでにあり、このことが、非物質的な感官である内的感官の導入によって、自然学的真理を獲得する方法と見かけ上同じ出発点に立脚して、示されるのである。
ビュフォンによって「人間の自然誌」がなされるとき、霊魂の存在とそれによる人間の優越は自然誌の方法では認識されない以上、知覚しえない微細な差異に満たされた自然の連続性はここで途絶える。というより、はじめから断絶していたことがここで明らかになる。「存在の連鎖」が、能うかぎりその範囲を広く保ったうえで、裁ち切られるのである。
この意味で、認識論的に自然化された人間は、再び脱自然化される、というのではなく、むしろ、人間の認識論的な自然化は、本当にはなされていなかったのだというべきである。人間の霊魂をめぐる真理の獲得は、自然学的真理を得るための認識の手順を踏んでいないのだから、人間は、霊魂を考慮に入れるかぎりにおいて、自然の連続性のうちにあるひとつの対象ではない。内的感官による人間本性の認識は、自然学的研究の遂行であるかのように見えるが、そうではない。内的感官は、人間と動物の区別を、さらにいえば人間の優越を前提に置いたうえで、それを自然学的真理であるかのように打ち建て、自然の連続性のうえに不連続性を導き入れるという要請に応えるものである。たしかにこの断絶は、霊魂の能力をきわめて限定的に定め、生命の諸能力の多くを身体の側に位置づけることで、「存在の連鎖」のなるべく端に置かれ、生命現象の自然学的な研究の可能性は確実に残される。いうなれば内的感官は、霊魂と動物性とがきっぱり分離されることを認めつつ、それでもなお、人間と動物をつなぎ、その連続性を能うかぎり保つことを、自然誌の枠組みのなかで行うための戦略的な道具でもあると述べることができるし、また、自身の身体を含めた「われわれ以外のもの」のすべてを引き離してなおわれわれそのものが、つまり霊魂が存在するという存在の感覚をもたらすきわめて内向的なものでもあるのだ。
3. 物質と内的感官、そして存在
もうひとつの、動物における内的感官が論じられるのは、主として1753年の「動物本性論」(Discours sur la nature des animaux)においてである。ここでは、動物と物質一般に共通の諸性質(延長、不加入性、重さ)が考察の対象から外され、さらに、植物と動物に共通の諸性質(栄養摂取(nutrition)、成長(développement)、生殖)も除外される。そのうえ、人間だけに属するものと、人間と動物が共通にもつものを慎重に腑分けしていくことも目指されるから、これはある種の「人間本性論」でもある[46]。以下、特に「人間の本性について」で示された非物質的な内的感官との差異の観点から、動物の内的感官の特徴を取り出したい。
第一に、動物の内的感官の存在は、「第一論文」で規定された意味での自然学的真理である。そもそも数学的真理は外界の諸対象とかかわりをもたずに得られる内向的なものであり、人間が、人間と動物に共通の事柄に関して、人間にかかわるかぎりでの秩序を置き入れようとするなら、そこに見出される真理は自然学的真理でしかありえない。ビュフォンは、動物一般がもつ機構(mécanique)、「生物エコノミー(économie animale)」を考察するにあたって、「まずは原因について推論せず、結果を確かめる(constater)ことだけに専念することにしよう」[47]と自制している。現在における妥当性は当然問わないが、非物質的な内的感官によって霊魂の存在が「内奥からくる」真理とされたのに対し、あくまで動物の内的感官は、事実に基づいてその確実性が示される自然学的真理として提示されることには留意したい。また別のところでビュフォンは、「動物の内部で生じていることを知るのは不可能である」と述べ、「人間と動物の自然なはたらきの結果を比較することしかできない」としていた[48]。人間本性の認識においては主体と対象が一致する自己関係しか形成しえないが、動物に関しては、「第一論文」で示された方法による以外によって何かを認識することはできないのであって、それゆえに、動物の内的感官は、「人間の本性について」で人間についての認識を得るためにはたらかされた内的感官とは、その位置が著しく異なる。
いっそう重要なのは、「純粋に物質的な存在」である動物の内的感官は、当然、物質からなるものであり、それは霊魂に存するのではないということである。そのうえビュフォンは、同じ名前で呼んでいるこの二つの感官がかくも異なることに自覚的でもあったから、この呼称の一致と内実の相違はいっそう際立つのだが、ともかく彼はこう述べている。
動物の内的感官は、外的感官と同じくひとつの器官であり、機構の帰結であり、純粋に物質的な感官である。われわれも動物と同様に物質的な内的感官(un sens intérieur matériel)をもっているが、そのうえ、それとは非常に異なる高次の本性をもつ感官を保持しており、それはわれわれを賦活し(anime)導く精神的な実体のうちに存する[49]。
人間は、物質的な内的感官に加えて、霊魂をもち、非物質的な内的感官ももつ。したがって人間はそのうちに二つの異なる内的感官を備えるという意味でも二重であり、また内的感官という語は、物質的なものと非物質的なもののいずれをも含むという意味で二重である。しかしこのことについてはいったん措くとして、ひとまず、動物は純粋に物質的な内的感官をもつということを確認しておきたい。
この物質的な内的感官は脳に位置づけられ、動物のもつ外的な諸感官、五感の受け取るもろもろの印象のすべてを受け取る[50]。ビュフォンにおいて感覚は、外的感官において、外界の諸対象からの印象によって引き起こされる震動(ébranlement)として物質的に同定される。また外的感官は、その形態構造(conformation)と相関した個別的な仕方でのみもろもろの印象を受け取る。例えば目は光の印象だけを、耳は音の印象だけを受け取るように。またそれらが受け取った印象による震動はごくわずかな時間しか持続しない。これに対して内的感官は、諸印象の本性にかかわらずそのすべてを受け取り、かつそこでは、震動が比較的長時間持続する[51]。
このことが示しているのは、物質的内的感官は動物個体における諸感覚の統一をもたらすということである。個別的な感覚をもたらすもろもろの外的感官に対して置かれる、「一般的な内的感官(un sens intérieur général)」としての脳は、ばらばらのものをひとつのものにまとめあげる。脳によって、感覚する主体の統一がもたらされるのである[52]。つまり、感覚する主体と感覚される対象とが対置されるようになるのであり、内的感官はその文字どおりの役割によって、動物において、自己の内部と外部との明確な区別を確立することを許すのだ。
物質的な内的感官を脳というひとつの身体器官に位置づけ、それによって動物個体の主体としての統一を可能にするよう規定することは、以下のような現象を、ビュフォンの自然誌の枠組みのなかで認めるための少なくとも条件をなす。彼はこう書く。
動物は反対に純粋に物質的な存在であり、思考することも反省することもない。しかし行為し、自己決定をなしている。われわれは、運動を決定する原理は、動物においては純粋に機械的な結果であり、その有機構成(organisation)に決定的に依存するということを疑うことができない[53]。
行為し、自己決定するためには、それを行う主体がひとつのものとしてあるのでなければならない。個々ばらばらの感覚が相互に関係づけられ、統一されることがなければ、ある対象に向かったり別の対象を避けたりすることはできない。ビュフォンは、非物質的な霊魂を人間の種差をなすものとして認める以上、感覚する主体としての動物個体の統一を物質の地平にとどまって説明しなければならなかった。物質的な有機構成の帰結である脳によって諸感覚の統一がなされると論じることで、余計な原理を導き入れることなく、行為する主体の統一が説明されうるようになる。
さらにいえば、動物の脳に存する内的感官が五感の受け取るもろもろの印象のすべてを統合的に受け取り、これによって動物個体の内的な統一がなされ、内と外の区別が鮮明になるのだとすれば、物質的な内的感官は、「人間の本性について」の非物質的な内的感官と同様に、存在の感覚をもたらすのではないか。1749年の「動物の一般誌」(Histoire générale des animaux)においてビュフォンは、「われわれは[…]生のない物質(la matière inanimée)には感情も、感覚も、存在の意識(conscience d’existence)もないのだと結論しなければならない」[54]と述べている。「感覚」といわれていることから、ビュフォンの念頭におそらく植物はないが、この一節は、裏を返せば、動物が「存在の意識」をもつことを決して妨げない。また例えば、『アカデミー・フランセーズ辞典』(第4版、1762年)の「意識(conscience)」の項目には、「内なる光、内部感覚」とある。実際、自身の内的な統一を認め、そのことによって自己の内部と外部とを区別する内部感覚が、存在の感覚でなくて何だといえるか。二つの異なる内的感官は、それがもたらす存在感覚、存在の意識において、重なり合うように思われる。そして実際ビュフォンは、以下で見るように、動物にも存在の意識を認めるのである。
とはいえ、物質的な内的感官と非物質的な内的感官のあいだの決定的な違い、すなわち、一方がひとつの身体器官である脳に、他方が霊魂に位置づけられるということは揺るがない。この差異を消し去ることはできず、ビュフォンはこのことに変更を加えない。
加えてビュフォンは、霊魂のもつ反省の能力が動物にはないということから、動物の存在の意識と人間のそれに関して、時間的な広がりの有無から両者の差異を論じている。反省するとは畢竟、自身の抱いた諸観念を反芻し、過去について思考すると同時に、それらによって未来を予期しようとする力能にほかならないのだから。
この反省する力能が動物には与えられなかったがために、動物は観念を形成できず、したがってその存在の意識はわれわれのよりも不確かで、小さなものである(leur conscience d’existence est moins sûre et moins étendue que la nôtre)ということは確実である。というのも動物は、いかなる時間の観念もたず、過去についてのいかなる認識も、未来についてのいかなる観念ももたないからである。動物の存在の意識は単純であり、現在的に動物に作用する諸感覚にのみ依存し、これらの感覚によって産出される内部感覚に存するのだ[55]。
人間は反省できるがゆえに、過去や未来においての自身の存在を確信し、行為できる。それに対して動物には現在しかなく、瞬間ごとにその存在を覚知するほかない。
しかし存在の意識という一点は、人間と動物にたしかに共通している。着目すべきは、両者の存在の意識をもたらす二つの内的感官が、一方は霊魂、他方は脳という、本性上異なる二つの実体に存するのにもかかわらず、動物の存在の意識は「われわれのよりも不確かで、より小さい」のだと直接に比較されていることである。神は人間の認識の尺度に収まらず比較不能であるからと自然誌の対象から除外したビュフォンにとって[56]、二つの項が比較できるということは、とりもなおさず、両者のあいだに本性上の差異はなく、同一の尺度で測ることができるということを、別言すれば、いずれも自然の連続性のうちにあるということを意味する。だからこそ、本性の異なる霊魂の存在は、自然学的真理ではなく数学的真理として示されなければならなかったのではないか。しかしここでは、本性の差異ではなく程度の差異が問題とされているのである。「人間は異なる本性をもち、例外的な分類をなす」と述べられていたが、この本性をなすのは霊魂であり、しかも霊魂とは思考であり、さらには思考することは存在することである。そしてこの存在に関して、人間と動物を隔てていた無限の距離は[57]、著しく縮小されるのだ。
二つの異なる内的感官は、「存在」の一語において重なり合う。ビュフォンは、霊魂と身体、動物性との対立の構図を崩すことは決してなく、人間の動物に対する優越は揺るがない。だから、裁ち切られた「存在の連鎖」がここで再び、明白に結び合わされるのだとただちに主張することはできない。しかし、人間と動物の各々において存在の感覚をもたらす内的感官が、人間に固有のものと動物と共通のものとでまったく異なるものとして構成されるのはなぜなのかと、このように問うてみることはできる。ここで、「存在の連鎖」のもうひとつの断絶が前景に立ち現れる。
この分割線が引かれるのは、生と死のあいだである。ビュフォンは「動物の一般誌」において、生物一般の生殖と発生、および栄養摂取と成長をめぐる一元的な理論の構築を試みるが、ここではっきりと、「物質に関してなされるべき一般的な分割は生きている物質(matière vivante)と死んでいる物質(matière morte)のあいだにある」[58]と書いている。すなわち、生命は組織化の帰結ではない。組織化された物質(matière organisée)と生のままの物質(matière brute)のあいだの分割は根本的なものではなく、すなわち、あとで見るビュフォンの生殖と発生の理論がある種の質料形相論として構想されていることを思えば、形相と結びついた質料と質料そのものの差異が問題なのではないのである[59]。ビュフォンは物質そのもののレベルで生と死を区別するのであって、生命と非生命のあいだに連続性はない[60]。「存在の連鎖」には、人間と動物のあいだのみならず、生物と非生物のあいだにも決定的な断絶がある、「人間の自然誌」と同年、それと同じく『自然誌』第2巻に収録されたこの論稿でビュフォンはすでにこの断絶を打ち出しており、つまりは、生命一般の一元的理解の要請がなされているのである。
この要請に応えるかたちで構想されるのが、有機的分子(molécules organiques)と内的鋳型(moule intérieur)の二つの概念を基軸とした理論である。簡潔に述べれば、この理論は、種のレベルですでに定められた内的鋳型にしたがって、生きている物質の単位である有機的分子に形が与えられるという仕方で生物内部の形態形成と生殖を論じるものであり、ティエリー・オケの表現を借りれば、形相(内的鋳型)と質料(有機的分子)の結合によって発生を説明するある種の質料形相論的な学説である[61]。今、この理論の細かな検討が目的ではないからこれ以上は踏み込まず[62]、ただ、この理論が応答しようとしていた問題は何かということを述べるにとどめる。ひとつには、動物の身体を構成する諸部分が調和し、同じ目的のために協同(concourir)しているという驚異を説明することであり、つまりは動物個体の形態形成上の統一を可能にする理論を与えることである。もうひとつは、もろもろの種(espèces)の持続、すなわち、生物が自身の類似物を産み出し、産み出し続けるという自然の最大の脅威に、種の統一に説明を与えることである[63]。この二つの統一を、物質の地平に内在的に説明するひとつの理論の構築が、「動物の一般誌」では目指される。
二つの異なる内的感官の差異を示しつつ、それらが存在の意識において重なり合うということを論じてきたわれわれにとって問題となるのはもっぱら個体発生であり、個体の統一だが、いずれにせよ重要なのは、物質的な内的感官、すなわち脳の形態形成もまた、すべての生物がしたがう発生理論の枠組みのなかでなされなければならないということである。「生物や生命体(l’animé)は、存在者の形而上学的な等級ではなく、物質の自然学的な特性である」[64]のだから、感覚する主体の統一は、個体の形態構造上の統一と同じ仕方で、自然学的に導き出されなければならなかったのである。
人間と動物が共通にもつ物質的な内的感官の観念は、それが人間以外にも属する以上、連続的な自然のなかで識別しうる人間にとっての自然学的真理として、事実に基づいて構成されなければならない。生と死のあいだに「存在の連鎖」の根源的な断絶を認める視点に立てば、人間と他の存在者は相対的に連続的であり、この意味で人間は、再び自然化される。この自然化の視点からは、人間に内在的な自己関係としての非物質的な内的感官によって、霊魂の存在を実際上数学的真理として導出するようないわば禁じ手は用いることができない。脳に存する内的感官は、いうなれば、生物と非生物のあいだの根本的な分割を前にして、生きた有機的分子からいわば積み上げ的に構築されるものであり、そうされなければならない。このことは、ビュフォンの自然誌が人間でないものについて記述するときの必然的な帰結である。これに対して、霊魂に存する内的感官は、霊魂の存在を、すなわち人間が他と異なる本性をもつこと、さらにはその優越を前提とし、それを主張するための出発点であり、いわば上から与えられるものなのである。そしてこの霊魂がどこから来るのかという問題は、原因の探究をはじめから断念するビュフォンにとっては、問うべきものではない。霊魂と身体をもつ人間がなぜ統一をもつのかは、問われることすらないのである。
両者はたしかに、存在の意識をもたらすかぎりにおいて重なり合う。しかし、人間を他の存在者から決定的に分離しようとする脱自然化の視点と、人間を含めた生物と非生物のあいだに断絶を導き入れ、生物一般に妥当する理論を構築しようとする自然化の視点とが、この二つの異なる、それでいて同じ名で呼ばれ、ともに存在の意識をもたらす内的感官において、調停されずに共存している。この言葉の内側でこの二つの視点が出会い、またこれらによって、内的感官は二つに引き裂かれているのである。
おわりに──宇宙のなかの人間の位置
ビュフォンの人間学において、人間の自然化と脱自然化の相剋は、内的感官というひとつの言葉において極まる。この二重性が明確かつ生産的な仕方で解消されることはない。ただ人間は、一方で自然の連続のうちにあり、もう一方で他の存在者と截然と区別され、それ自身二重の存在としてある。
『百科全書』項目「生物エコノミー」を執筆したメニュレ・ド・シャンボーというモンペリエ学派に属する医師がいるが、この人についてロズリーヌ・レイが記したことは、部分的には、ビュフォンについても当てはまる。
メニュレは明らかに人間を他の生物種と比較している。人間が動物と共通にもっているもの、すなわち動物性ないし感性によって。こうすることは人間を、宗教によって被造物の中心に置かれ、造物主の似姿とされてきた玉座から引きずり降ろすことになる[65]。
生物についての普遍的な理論の構築を目指すことは、とりもなおさず、宇宙のなかの人間の位置を問い直すことにほかならない。メニュレはすでに彼岸にいるといいたいのではないが、ビュフォンは、この狭間にいる。つまり、一方で人間と動物のあいだの無限の隔たりを強調しながら、他方で人間と動物がともに生物であり、また生物と非生物の区別こそが根本的なものであると主張する。つまるところここで問題となっているのは、自然の連続性のうえの不連続を、「存在の連鎖」の最大の分割線を、人間と動物のあいだに置くか、生物と非生物のあいだに置くか、ということである。たしかに前者に着目すれば、ビュフォンはきわめて人間中心主義的であるといえるかもしれない。しかし、内的感官というひとつの言葉が二重であって、人間自身の卓越を論証する霊魂の自己認識の手段でありつつ、動物個体に主体としての統一を与える一般的な感官でもあり、しかもいずれも存在の意識をもたらすものでもあることを思えば、後者の分割線にも目を向けざるをえない。
ビュフォンがこの二択のいずれかをはっきりと選ぶことはない。内的感官と同様に、ビュフォン自身が、人間の自然化と脱自然化の二つの方向に引き裂かれているのであって、だからこそこの言葉は、まったく別のものが重なり合う二重性を孕みながら、立ち現れるのである。
Notes
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[1]
Cf. Paolo Quintili, Matérialismes et Lumières. Philosophie de la vie, autour de Diderot et de quelques autres, 1706-1789, Paris, Honoré Champion, 2009.
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[2]
Cf. Michèle Duchet, Anthropologie et histoire au siècle des Lumières. Buffon, Voltaire, Rousseau, Helvétius, Diderot [1971], Paris, Albin Michel, 1995.
-
[3]
以上の目的から、ここで扱うテクストは『自然誌』第1巻(1749年)「第一論文」、第2巻(1749年)「人間の自然誌」および「動物の一般誌」、第4巻(1753年)「動物本性論」に限定し、それ以降のビュフォンの思索の展開はたどらない。ビュフォンの引用はすべて以下の版から行い、その際にはŒuvresと略記する。Georges-Louis Leclerc Buffon, Œuvres, préface de Michel Delon, textes choisis, présentés et annotés par Stéphane Schmitt, avec la collaboration de Cédric Crémière, Paris, Gallimard, « Bibliothèque de pléiade », 2007.また、histoire naturelleという語の訳語についても述べておきたい。この言葉は、自然史、自然誌、博物誌、博物学などと訳されてきた。一八世紀におけるhistoireという語には、もちろん「歴史」という意味もあるが、「植物や鉱物などの自然の事物についてのあらゆる種類の記述(descriptions)」(アカデミー・フランセーズ辞典(第4版、1762年))という意味もあり、ビュフォンがものした著作の題名であると同時に彼が取り組んだ学問の名称でもあるhistoire naturelleでは、前者の含みが保たれつつもむしろ後者の意味が前景にある。したがって本稿では、この語は「自然の記述」を第一義とすると考え、一貫して「自然誌」と記す。この訳語の選択は以下にも学んだ。木村陽二郎『ナチュラリストの系譜 近代生物学の成立史』ちくま学芸文庫、2021年。
-
[4]
Cf. Thierry Hoquet, Buffon. Histoire naturelle et philosophie, Paris, Honoré Champion, p. 147-150. 著者はこの傾向を「エピクロス化(épicurisation)」と呼び、哲学における心理学的側面を強調するマルブランシュに連なる系譜に対置している。ただしビュフォンに関しては、おそらく、情念=受動を経て結ばれる観念が、情念をもたらす対象と一切の類似をもたないことによって、霊魂と身体の本性的な差異が主張されなければならなくなる。「われわれの目や耳こそが、これらの物質との必然的なまったき一致を示すのである。なぜなら、これらの器官は、実際、この物質そのものと同じ本性をもつからである。しかし、われわれが感じる感覚とは、共通なものや類似しているものはまったくない。このことだけで、われわれの霊魂は、物質の本性とは異なる本性をもっているということを証明するのに十分ではないか」(Œuvres, p. 183)。
-
[5]
Hoquet, op. cit., p. 149.
-
[6]
Louis de La Caze, L’Idée de l’homme physique et moral, pour server d’introduction à un traité de médecine, Paris, Guérin & Delatour, 1755. Antoine Maubec, Principes physique de la Raison et des Passions des Hommes [1709], texte établie, présenté et commenté par Paolo Quintili, Paris, Honoré Champion, 2011.
-
[7]
「ビュフォンの思想はだから、理論的な論文のなかだけにあるのでも、総括的な章のなかだけにあるのでもない。そうではなく、『自然誌』の全体をとおして、厳密にいって科学的な省察が科学の方法についての省察にともなっているのである」(Duchet, op. cit., p. 230)。
-
[8]
Ibid., p. 233-234.
-
[9]
Jacques Roger, Les sciences de la vie dans la pensée française du XVIIIe siècle. La génération des animaux de Descartes à l’Encyclopédie, Paris, Armand Colin, 1963, p. 527.
-
[10]
Arthur O. Lovejoy, The Great Chain of Being [1933], Cambridge, Mass., Harvard University Press, 1964.また、ジャン・エラールは以下のように書いている。「諸存在者の階梯や連鎖の譬えは、一八世紀において真にクリシェだった。この譬えは哲学的な言葉遣いに属するが、その後、自然科学において実験によって正当化されるのが見られる」(Jean Ehrard, L’Idée de nature en France dans la première moitié du XVIIIe siècle [1963], Paris, Albin Michel, 1994, 191.強調原文)。また、「存在の連鎖」の観念とライプニッツについては以下を参照せよ。Yvon Belaval, « Leibniz et la chaîne des êtres », Analecta Husserliana, vol. 11, 1981, p. 59-68. 例えばライプニッツは、『理性にもとづく自然と恩寵の原理』第3節で、「自然においてはすべてが充実している」と書いている(G. W. Leibniz, Die Philosophischen Schriften Von Gottfried Wilhelm Leibniz, éditionde G. I. Gerhardt, 1849-1890, tome VI, p. 598)。
-
[11]
Œuvres, p. 35.
-
[12]
Ibid., p. 51.
-
[13]
Ibid., p. 48. 他方で、自然の連続性は、牡蠣などの境界的な事例を自然のうちに位置づける困難に対処し、また奇形の問題に関して前成説の示す難点と対決するときの戦略的な観念であったともいえるし、また奇形の存在は自然の連続性の主張を裏づけるものであったともいえる。 Nouailles, Bertrand, « Le monstre : un concept stratégique dans “l’histoire naturelle” de Buffon », Revue philosohique de la France et de l’étranger, t.141, no. 1, 2016, p. 41-58.
-
[14]
Roger, op. cit., p. 529.
-
[15]
Œuvres, p. 34.
-
[16]
Ibid., p. 34.
-
[17]
Ibid., p. 60.
-
[18]
Ibid., p. 60-61.
-
[19]
Ibid., p. 64.
-
[20]
Ibid., p. 61.
-
[21]
Ibid., p. 42. 先述のとおり(註3)、この「歴史(histoire)」は「記述」と訳出した« description »とほとんど同義であり、自然誌の「誌」にあたるが、両者を区別するための適当な訳語が見当たらないため、無様ながらもこのように訳出した。
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[22]
「私には、これらの研究において精神を導く真の方法とは、観察を頼ってそれを収集し、また新たに観察を行い十分な数を集め、主要な事実の真理を保証し、数学的方法はこれら事実から引き出しうる帰結の蓋然性の推定のためにのみ用いることである。それから類比によって諸事実を結びつけ、実験という手段を用いて、これら関係すべての組み合わせを説明する構想を抱き、それらをもっとも自然な順序において明確にすることである」(Ibid., p. 65-66)。
-
[23]
Ibid., p. 62-63.
-
[24]
Ehrard, cit., p. 252.
-
[25]
ビュフォンにおける人間の認識論的な自然化をこのように描き出すなら、古典主義時代のエピステーメーにおける「人間本性」と「自然」の紐帯を、「言説」を核として言い当てた『言葉と物』のフーコーの慧眼にはやはり注意を払わなければならない。「『名指す』という行為のなかで、表象のそれ自身への折り目としての人間本性は、思考の線状の系列を部分的に異なる諸存在の恒常的な一覧表へと変える。言説のなかで人間本性は自身の表象を二重化し、それを顕現させるが、この言説によって人間本性は自然へと結びつけられるのである。逆にいえば、存在の連鎖は自然のはたらきを介して人間本性に結びつけられる。それは、視線に触れるような現実の世界が、存在の連鎖の純粋かつ単純な展開であるからではない。そうではなく、現実の世界が存在の連鎖のもつれあった──反復的で不連続な──諸断片を与えるからである。そして、精神のなかの表象の系列は、知覚しえない差異(différences imperceptibles)の連続的な道程をたどるよう強制されはしないからだ」(Michel Foucault, Les Mots et les choses [1966], Paris, Gallimard, « Collection Tel », 1990, p. 320-321)。併せて、フーコーの議論を踏まえて書かれた坂部恵による一節も、ビュフォンを突き放しつつ理解する助けになる。「近世の人間主体がみずからのもとに手なづけたと信じた『自然』は、むしろその人間主体の背丈に合わせて切り取られたかぎりの表象としての自然にすぎない。十七世紀から十八世紀前半にかけてのひとびとにとっては、それが自らの宇宙のすべてであった自我主体とその表象との形づくる透明な世界は、こうして、むしろありうべき世界あるいはありうべき自然のほんの一部にすぎぬ有限な領域にほかならぬことがあきらかになる」(坂部恵『坂部恵集2 思想史の余白に』岩波書店、2006年、97ページ)。
-
[26]
Cf. Franck Tinland, « Les limites de l’animalité et de l’humanité selon Buffon et leur pertinence pour l’anthropologie contemporaine », Buffon 88. Actes du Colloque international pour le bicentenaire de la mort de Buffon, réunis par Jean-Claude Beaune et al., sous la direction de Jean Gayon, préface d’Ernst Mayr, postface de Georges Canguilhem, Paris, Vrin, 1992, p. 543.
-
[27]
Œuvres, p. 182.
-
[28]
Ibid., p. 443.
-
[29]
Ibid., p. 185.
-
[30]
またビュフォンは、人間は動物を使役するのに対して、動物が他の動物を使役することはないという事実も、人間の優越の証拠としてあげている。「もっとも愚かな人間であっても、もっとも理知的な(spirituel)動物を操るのに十分であるということは認められるだろう。この人間は、この動物に命令し、それを自らの使用に供する。これは力や巧みさによるというよりも、本性の優越による。というのも人間は、理性的な意図をもち、行為の秩序をもち、動物に従属を強制する一連の手段をもつからである。また、われわれは、より強く巧みな動物が他の動物に命令し、それらを使用に供するのを見ることがないからである」(Ibid., p. 187)。
-
[31]
「人間の自然化はここで絶対的な限界に行き着く。有機構成(organisation)の類似が明らかになるほどに、人間のその身体への還元不可能性が、『自然誌』の圏域で人間を位置づけることへの還元不可能性が増大する。人間において、動物的身体には、「神の気息」が染みついているのだ」(Franck Tinland, art. cit., p. 547)。
-
[32]
Œuvres, p. 186.
-
[33]
Ibid., p. 190. ジョルジュ・ギュスドルフは、以上のようなビュフォンの議論に関して、自然の連続性と不連続性の観点から以下のように述べている。「たしかに人間が『ひとつの例外的な分類をなす』のだとしても、同じビュフォンにとって、人間は『それ自身動物という分類に列せられなければならない』ということも同じくらいに真実なのだ。二つの主張が矛盾するのは見かけ上のことでしかない。あらゆる厳密な分類の敵対者であるビュフォンは、『分類』という語に明確な意味を与えていないのだからなおさらである。『自然誌』の著者の本当の立場は、二つの対立する定式のあいだにあるはずだ」(Georges Gusdorf, Dieu, la nature, l’homme au siècle des Lumières, Paris, Payot, 1972, p. 376. 引用中のビュフォンからの二つ目の引用は、Œuvres, p. 186からだが、ギュスドルフはわずかに文言を変更している)。これはたしかに正しいが、以下で問題にしたいのは、ギュスドルフがまさに二つの定式の「あいだ」と名指しているところに、ビュフォンの内的感官という言葉の二重性が存するということである。
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[34]
Œuvres, p. 184.
-
[35]
Ibid., p. 183.
-
[36]
また、言語の使用の問題をめぐる人間と動物の差異についても、ビュフォンはデカルト『方法序説』第5部での議論と近い論を展開している。 René Descartes, Œuvres, publié par Charles Adam et Paul Tannery, nouvelle présentation, en co-édition avec le Centre national de la recherche scientifique, 11 vols., Paris, Vrin, 1969-1986, t. VI p. 40-60.
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[37]
アリストテレス『心とは何か』桑子敏雄訳、講談社学術文庫、1999年。またデカルトは、ハーヴィーの血液循環説に批准しつつ(ただしその動因についてはハーヴィーを批判しながら)書かれた『人間論』の末尾において、動物という機械のうち、血液と精気以外の運動の原理や生命の原理、また植物的霊魂や感覚的霊魂を見てはならないとしたうえで、これら血液や精気は心臓の熱によって動かされるものであり、その本性は非生物と異なるわけではないと述べている(Descartes, op. cit., t. XI, p. 202)。Cf. Raphaële Andrault, La Raison des corps, Paris, Vrin, 2016, p. 9-23. ここには霊魂概念の内実の変化が認められる。アリストテレス-ガレノス的伝統において霊魂とは形相であり、生命をもつ身体にその本質を与え、その構造や機能を説明するものであったのに対し、デカルトにいたると霊魂は人間にのみ存する精神へと限定され、その機能を身体との関わりにおいて説明すべきものになる。この変化にともない、心理学(psychologie, psychologia)は、生物についての学知の総称から、理性的霊魂(âme rationnelle)についての学知の呼称へとその意味を変える(Cf. Fernando Vidal, Les Sciences de l’âme. XVIe-XVIIIe siècle, Paris, Honoré Champion, 2006, p. 87-97)。おそらくはこの移行があったからこそ、ティエリー・オケは、註4で述べたように18世紀における哲学のエピクロス化と心理学的側面を強調するマルブランシュ的な立場とを対比することができた。またこの霊魂-形相から霊魂-精神への移行によって、デカルトにおいては、心身二元論の新たな形態と心身結合の問題が提起される。動物機械論の提示とそれにともなう動物霊魂論の興隆は、おそらくはこの移行と軌を一にしている。ビュフォンに関しては、第3節でみるように、生と死の区分を重視し、非機械論的な独自の生殖理論を構築する点で、こういってよければデカルトより柔和であり、また、以下で論じる内的感官の二重性は、ポスト・デカルト的な心身問題への消極的な応答であると看做すこともできるだろう。動物霊魂論については特に以下が参考になる。金森修『動物に魂はあるのか 生命を見つめる哲学』中公新書、2012年。
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[38]
Œuvres, p. 471.
-
[39]
Ibid., p. 181.
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[40]
Ibid., p. 184.
-
[41]
Ibid., p. 183.
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[42]
Ibid., p. 188.
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[43]
Ibid., p. 183.
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[44]
この「論証」の語に着目しつつ、ビュフォンにおける霊魂の存在という真理を数学的真理として同定する観点は以下に学んだ。Hoquet, cit., p. 708.
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[45]
Œuvres, p. 183.
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[46]
Ibid., p. 431-432.
-
[47]
Ibid., p. 433.「生物エコノミー」を「機構」と併置することは、機械論的な含みを想起させるからふさわしくないと思われるかもしれない。たしかにビュフォンが構築する生殖理論は、有機的分子と内的鋳型の概念によって伝統的な機械論的生物観に反旗を翻すものだが、他方、ニュートンとライプニッツの伝統に棹差す機械論的なものでもあり、ここでなされるのは、「純粋に物質的な存在」である動物の組成や機能を、物質の地平に内在的に論じることであるから、この併置もとくだん奇妙ではない。 Roger, op. cit., p. 542-558. Roselyne Rey, « Buffon et le vitalisme », Buffon 88. Actes du Colloque international pour le bicentenaire de la mort de Buffon, réunis par Jean-Claude Beaune et al., sous la direction de Jean Gayon, préface d’Ernst Mayr, postface de Georges Canguilhem, Paris, Vrin, 1992, p. 399-413.
-
[48]
Œuvres, p. 186.
-
[49]
Ibid., p. 443.
-
[50]
「したがって私は、動物において、五感に対する諸対象の作用が脳に別の作用を生み出すのだと考える。私は脳を一般的な内的感官であるとみなす。それは外的感官が伝達するすべての印象を受け取る」(ibid., p. 443)。
-
[51]
Ibid., p. 447.
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[52]
以上のことは以下で部分的には示されていた。Laetitia Simonetta, Connaissance par sentiment au XVIIIe siècle, Paris, Honoré Champion, 2018, p. 148-157. しかしそこでは、二つの内的感官の異同がたんに執筆時期(出版年)の相違に還元され、両者の関係が吟味されることはない。
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[53]
Œuvres, p. 443.
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[54]
Ibid., p. 135.
-
[55]
Ibid., p. 461.
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[56]
Ibid., p. 149.
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[57]
「[人間の]分類から降り立って動物の分類に至る前には、無限の空間を踏破しなければならない。というのも、人間が動物の秩序に属しているのだとすれば、自然のうちには、人間よりも完全でなく、動物よりも完全ないくつかの存在者があり、それらを通して、人間から猿へと、感覚しえない仕方で、段々と下降することになるのだが、しかしそうではなく、思考する存在者から物質的な存在者へ、知的な力能から機械的な力へ、秩序や意図から盲目的な運動へ、反省から欲求へと、一挙に移行するからである」(ibid., p. 189-190)。
-
[58]
Ibid., p. 157. ロズリーヌ・レイはこの一節に注目し、ビュフォンにおける「存在の連鎖」の断絶を主張しているが、この論文で問題とされるのは特にビュフォンにおけるニュートンとライプニッツの受容の様態であり、またそれを基軸としたモンペリエ生気論との関係の検討であって、われわれとは観点が異なる。 Rey, Roselyne, art. cit.
-
[59]
Œuvres, p. 157. ビュフォンは、生きている物質と死んでいる物質の差異が根本的だと述べた直後、「組織化された物質と生のままの物質のあいだにあるのではなく」と加えている。
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[60]
1749年の「動物の一般誌」ではこの不連続は残されるが、1766年の「第二の自然の見方(Seconde vue de la nature)」は、「熱」の概念によって両者間の移行に説明を与えようとする。
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[61]
Hoquet, op. cit., p. 422. 先に述べたように(註37)、ポスト・デカルトの霊魂-精神的な立場を踏襲しつつ立論していくビュフォンにとって、内的鋳型と有機的分子からなる質料形相論的な生殖理論は、機械論的自然学が生命・生物に取り組む際に打ち当たる困難(特に念頭にあるのは前成説およびモーペルテュイの生殖理論に対する批判であり、また種および個体の統一をいかにして説明するかということである)を乗り越えるために、アリストテレス-ガレノス的な霊魂-形相を身体的次元へと縮減したうえで再導入するものであったともいえるかもしれない。
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[62]
この理論については特に以下に詳しい。Roger, op. cit., p. 542-558. François Duchesneau, La physiologie des Lumières [1982], Paris, Classiques Garnier, 2012, p. 345-451.
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[63]
Œuvres, p. 134.
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[64]
Ibid., p. 143.
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[65]
Rey, op. cit., p. 124.
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中山 義達「人間は自然に還せるか——ビュフォンにおける内的感官の二重性」 『Résonances』第14号、2023年、ページ、URL : https://resonances.jp/14/la-dualite-du-sens-interieur-chez-buffon/。(2024年11月21日閲覧)