Résonances

東京大学大学院総合文化研究科フランス語系
オンラインジャーナル
Résonances 第13号 | 2022年10月発行
クロニック

「神話」をめぐる係争の現在ミシェル・シュリヤ『なおさら(À plus forte raison) モーリス・ブランショ、1940-1944年』書評

「神話(mythe)」とは、作家であれ共同体であれ、その存在の起源や本質なるものとして機能する物語である。ブランショという作家の「神話」とは、彼が1944年6月にナチスによって銃殺されかかったという逸話であり、これは、自伝的作品『私の死の瞬間』(1994年)で語られ広く知られることになった。すなわち、ブランショは戦時中にナチスに対する何らかの抵抗運動に関与していたことにより、致死的で極限的な体験をしたということが、ブランショ──「死」と「抵抗」を思考した作家──の「神話」として語られることになった。たとえば作家の松浦寿輝は文芸誌での座談会のなかで、「抽象性の極点を示しているような彼[ブランショ]の思考に、第二次世界大戦中の彼の切実な実体験の裏打ちがあることを忘れてはならない」[1]と発言しているが、まさに思考が体験によって「裏打ち」されているという構造そのものが「神話」の形式に他ならないのである。

まずは本書[2]の成立事情をまとめよう。著者のミシェル・シュリヤはジョルジュ・バタイユの研究で知られる作家であるが、自身が編集主幹を務める『リーニュ』誌での2014年の特集「モーリス・ブランショの諸政治」[3]からブランショに対する極めて批判的な仕事に乗り出し、2015年の『もうひとりのブランショ』(L’autre Blanchot[4]では戦前の極右ジャーナリスト時代のブランショを「もうひとりのブランショ」として名指し、我々が知るブランショはその過去の「もうひとり」の自分の抑圧と否認の上に成り立っていると主張した。そして2021年に出版された本書は『もうひとりのブランショ』の「補遺」[5]として位置づけられているが、そこではまさしく上記のブランショの「神話」の解体が企てられている。

また本書にシュリヤ宛の書簡が収録されているジャン=リュック・ナンシーについて言えば、彼は『リーニュ』誌でのブランショ特集と同年の2014年に出版された『否認された共同体』[6]においてブランショの共同体論および彼の思想全体に対してかなり手厳しい考察を行うなど、近年はブランショに対する批判的姿勢を強めていたことが知られているが、2011年の『モーリス・ブランショ 政治的パッション』[7]で彼が公開したブランショの書簡は、シュリヤがブランショの政治的過去についての一連の仕事に取り組むきっかけとなったようだ[8]。共同体をめぐるナンシーとブランショの「係争」[9]は、1983年のナンシーの論文「無為の共同体」以降、ブランショの死後も続いていたことが知られているが、本書、つまりシュリヤとナンシーによる連名の書物は──刊行の直前にナンシーがこの世を去ったという点も含めて──「係争」の帰結のひとつとして位置づけられるだろう。

シュリヤによる「神話」の解体の要点をまとめよう。まず提起されるのは、「ブランショの生命は個人的に脅かされていなかったし、銃殺のために壁に追い立てられていたわけではなかっただろう」[10]ということである。シュリヤが切り込む『私の死の瞬間』の伝記的妥当性の問題についてはこれまで、同時代人であるピエール・プレヴォ宛の書簡(1944年11月30日付)の参照などによって、その妥当性は概ね確証されてきた。ブランショの浩瀚な伝記を著したクリストフ・ビダンも、銃殺未遂事件が1944年6月(特に可能性が高いのは20日あるいは29日)に起こったことを確言している[11]。だが2014年に、事件の直後である7月5日付のジャン・ポーラン宛の書簡が新たに公開された[12]。その書簡では、事件は「戯れの、ほとんどおどけた調子で」語られており、そこに「悲劇的なところは全くない」とシュリヤは診断する[13]。ブランショの「神話」、つまり『私の死の瞬間』で語られた話は、実際に起こった事件とはかけ離れているのではないかというわけだ。

ただ、言うまでもなく、『私の死の瞬間』がどれだけ「自伝的」と見なされようが、それは文学作品であり、シュリヤが重視するのも『私の死の瞬間』の虚構性そのものではない。「重要なのは、この[『私の死の瞬間』の]著者が、それを伝記的なものとして正当化することに努めなければならないと思っていたということである。少なくとも書簡を用いて、つまり彼が送り、今や我々が知っている書簡、我々に知ってもらうためにこそ彼が送った書簡を用いて」[14]。つまり、シュリヤにとって『私の死の瞬間』の伝記的妥当性が問題になるのは、その妥当性を「ブランショは確証することを差し控えているが、彼の友人たちには自らのためにそうするように助長させた」[15]からなのである。ここでシュリヤの批判の矛先はブランショを中心とする人々の「共同体」へと向かう。

ブランショからの書簡を用いて『私の死の瞬間』の伝記的妥当性を主張した顕著な例はジャック・デリダだろう。彼は、いかなる真正な証言(自伝)にも虚構が入り込む可能性があり、純粋な証言(自伝)は存在し得ないと論じながら、同時にブランショからの書簡を「文学的でも虚構的でもないと想定される証言」として引用することで、「文学というかたちでの証言」──つまり『私の死の瞬間』──が物語る出来事の真実性を主張した[16]。このデリダの振る舞いについては、シュリヤに先立って『私の死の瞬間』の伝記的妥当性の問題を論じたジャック・ルカルムが述べているように、「デリダは、[…]ブランショの右翼の過去が問題にされるのに直面して、『私の死の瞬間』で語られた物事の正確さをどうしても保証したいと思っているのだ」[17]と言えるだろう。戦前のブランショ(シュリヤが「もうひとりのブランショ」と呼ぶことになるもの)には反ユダヤ主義的な言説が読み取れるとして80年代に論争を巻き起こした「反ブランショ派」に対する応答の必要性に駆られ、デリダはともすれば自らの理論の整合性を危うくしてしまうような身振りでもって、『私の死の瞬間』の証言の真正性、つまりブランショの「神話」へと訴えかけたのである。

「神話」は(それがブランショの極めて個人的な体験である限りで)証言の問題を孕むため、その真正性には必然的に決定不可能な部分がある。「神話」の解体にしても事情は同じである。そこでシュリヤは占領時代のブランショに関する端的な事実に注目していく。それはブランショが1941年4月から1944年8月まで『ジュルナル・デ・デバ』誌で文芸時評を執筆していたという事実、つまり「対独協力(collaboration)によって最も身を落とした新聞のひとつで執筆することに──そして実際のところ、死の際までぎりぎりまでin extremis)──頑として努めていた」という事実である[18]。まずシュリヤが「死の際まで=ぎりぎりまで」と言うのは、ブランショによる文芸時評の掲載が、連合軍によるパリ解放の約1週間前、同誌が発行を停止する直前の8月17日まで続いていたからである。また、同誌はヴィシー政権から財政的に援助を受け、当局からの情報を宣伝する典型的な対独協力のプロパガンダとして機能していたことが知られている。ただ同誌でのブランショの文芸時評は当時の政治状況に対する「鷹揚さ=無関心(indifférence)」[19]に貫かれていたこともまた知られている。ではなぜシュリヤは改めてこうした事実に着目するのか。彼の狙いは二つある。

まず第一に、これらの文芸時評を編集・校訂し、2007年に時評集[20]として出版したクリストフ・ビダンに対する批判がある。ビダンは、同誌でのブランショについて、「彼はそこで制限されながらも同時に比類のない発言の自由を有していたようである」[21]との判断に基づき、ブランショのテクストだけを発表順に収録するにとどめている。シュリヤはここに重大な削除、隠蔽を見る。「たしかに諸々のテクストはすべてそこにあり、何も抜き取られてはいない。しかしながらそれらが最初に姿を見せた時のコンテクストは何であれ最も些細な情報も含めて欠如しているのだ。[コンテクストとは]つまり、場所、新聞、新聞の構成、そのイデオロギー、その新聞が仕えていた利益、最後に、その新聞が陥っていた、取り返しのつかないほど猛り狂って常軌を逸した状態である」[22]。現在のブランショの「共同体」を牽引する研究者であるビダンのうちに、隠蔽によって「神話」を維持しようとする身振りをシュリヤは見出しているのだ。そしてシュリヤは、実際に当時の紙面上においてブランショの文芸時評の周りに書かれていた記事の内容を約6ページにわたって暴露し、共産党員やユダヤ人を「テロリスト」として処刑したという記事など、ナチスのイデオロギーに同一化した新聞の実態を明らかにするのである。

そして第二に、『もうひとりのブランショ』以来シュリヤが一貫してこだわってきたブランショの「思想の矛盾=非一貫性(l’inconséquence de la pensée)」[23]への批判がある。彼は上述の「コンテクスト」を暴露した直後、1996年のある出来事を喚起する。それはブランショの著作も出版していたファタ・モルナガ社が極右の理論家・活動家であるアラン・ド・ブノワの著作を刊行したことに対しブランショが公然と抗議し、同社からの自著の出版を停止した事件である。ブランショは、ブノワが反ユダヤ主義的な雑誌に寄稿していた事実を受け、「彼[ブノワ]は彼が書き出版していた場所によって反ユダヤ主義者なのである」[24]と述べていた。シュリヤはこの言葉をそのままブランショ自身に向けようとする。

なおさら(à plus forte raison)致命的な、この言葉を発するその人にとっては致命的な言葉である。この言葉は裁き(jugement)の規則を打ち立てているが、我々が今しがた読んだことのすべて、つまり戦争の全期間を通じて彼[ブランショ]自身が『ジュルナル・デ・デバ・ポリティック・エ・リテレール』誌の紙面で書いたものに付随していたことのすべてが彼に対して降りかかり、そのことによって彼をその裁きの規則に従わせ、今度は彼を断罪する(condamnant)のである。彼は他でもなく彼自身から見て反ユダヤ主義者であることになるだろう[25]

他者に対する批判が自己言及となってブランショ自身への批判として回帰してしまうという矛盾=非一貫性(inconséquence)、シュリヤが固執するのはこれである。たとえばマイケル・ホランドは『もうひとりのブランショ』におけるシュリヤに「倫理的な裁き(jugement moral)の身振り」を見出し、批判しているが[26]、これに対してシュリヤは「私はブランショ自身が打ち立てた裁き(jugement)の条件だけにとどめておいた」[27]と反論し、自らはブランショを倫理的に断罪したわけではなく、その主張の矛盾=非一貫性を提示しただけだと述べている。つまりブランショ自身の基準に照らして、『ジュルナル・デ・デバ』に寄稿していた彼は反ユダヤ主義者だというわけである。

ナンシーの書簡について詳述する余裕はないが、彼はシュリヤの議論に賛意を示しながら、『否認された共同体』においてと同様にブランショの「思想の貴族主義(une aristocratie de la pensée)」[28]を指摘している。つまり、ブランショの思想は、「謎」「孤独」などの「明かし得ぬもの(l’inavouable)」への志向によってあらゆる「伝達=交流(communication)」や「分割=分有(partage)」を拒絶する、権威的な「神話」として成立している──「明かし得ぬものを認めることは、神話(mythe)への訴えを認めることである」[29]──という旨の批判である。

本書が行っているのは実証的な研究というよりも、ブランショとその「神話」を中心とする人々の「共同体」に対する全般的な批判であり、その主張の当否をめぐっては慎重な議論が必要である。ただ少なくともナンシーとシュリヤという卓越した知性がブランショに対する何らかの根本的な不信感を共有し、好戦的な批判を展開したという事実を無視することはできないだろう。レスリー・ヒルは、ナンシーやシュリヤへの批判的応答を『政治的ブランショ』(2020年)[30]などで精力的に展開しているが、本書に対しては2021年10月に詳細な反論[31]をネット上で公開するなど、係争は現在も続いており、この係争をどのように受け止めるかは、ブランショを読む我々一人ひとりの今後の課題となっている。

Notes

  1. [1]

    『群像』2021年7月号、376ページ。

  2. [2]

    Michel Surya, À plus forte raison Maurice Blanchot, 1940-1944, Paris, Hermann, 2021. 以下ではAPと略記する。

  3. [3]

    Lignes, n° 43, « Les Politiques de Maurice Blanchot 1930-1993 », mars 2014.

  4. [4]

    Michel Surya, L’autre Blanchot, Paris, Gallimard, 2015.

  5. [5]

    AP, p. 23.

  6. [6]

    Jean-Luc Nancy, La Communauté désavouée, Paris, Gallimard, 2014.

  7. [7]

    Jean-Luc Nancy, Maurice Blanchot. Passion politique. Lettre-récit, Paris, Galilée, 2011(『モーリス・ブランショ 政治的パッション』安原伸一朗訳、水声社、2020年).

  8. [8]

    Michel Surya et Éric Aeschimann, « Entretien. Quand Blanchot soutenait Pétain », Nouvel Observateur, n2575, le 13 mars 2014, p. 100.

  9. [9]

    両者の間の「係争」は以下の論文で明確に整理されている。郷原佳以「『すべて』をめぐる断片の運動 ブランショにおける共同体の(非)実践的射程」、岩野卓司編『共にあることの哲学と現実:家族・社会・文学・政治』書肆心水、2017年。

  10. [10]

    AP, p. 21-22.

  11. [11]

    Christophe Bident, Maurice Blanchot-partenaire invisible, Seyssel, Champ Vallon, 1998, p. 229(『モーリス・ブランショ 不可視のパートナー』上田和彦ほか訳、水声社、2014年、501-502ページ).

  12. [12]

    Cahiers de l’Herne Blanchot, Paris, L’Herne, 2014, p. 157.

  13. [13]

    AP, p. 25.

  14. [14]

    AP, p. 28.

  15. [15]

    AP, p. 22.

  16. [16]

    Jacques Derrida, Demeure-Maurice Blanchot, Paris, Galilée, 1998, p. 64-65(『滞留[付/モーリス・ブランショ「私の死の瞬間」]』湯浅博雄監訳、未來社、2000年、75-76ページ).

  17. [17]

    Jacques Lecarme, « Demeure, la question de l’autobiographie », Christophe Bident et Pierre Vilar (dir.), Maurice Blanchot. Récits critiques, Tours, Farrago, 2003, p. 458.

  18. [18]

    AP, p. 36.

  19. [19]

    Christophe Bident, op.cit., p. 181(『モーリス・ブランショ 不可視のパートナー』前掲書、162ページ).

  20. [20]

    Chroniques littéraires du Journal des débat. Avril 1941-août1944, Christophe Bident (éd), Paris, Gallimard, «NRF», 2007(『文学時評1941-1944』郷原佳以ほか訳、水声社、2021年).

  21. [21]

    ibid., p. 9(同書、7ページ).

  22. [22]

    AP, p. 39. また以下の論文では、ビダンの編集による時評集所収のテクストと雑誌初出時のテクストの間に不可解な相違が見られるとして、時評集の信頼性そのものに疑問を投げかけている。Takeshi Matsumura, « Sur les Chroniques littéraires de Maurice Blanchot éditées par Christophe Bident », Glaliceur, no 61, 2022.

  23. [23]

    Michel Surya, L’autre Blanchot, op.cit., p. 14.

  24. [24]

    AP, p. 48.

  25. [25]

    AP, p. 49.

  26. [26]

    Michel Holland, « N’en déplaise. (Pour une pensée conséquente) », Cahiers Maurice Blanchot, n° 3, Automne 2014, p. 150.

  27. [27]

    AP, p. 15.

  28. [28]

    AP, p. 60. Cf. Jean-Luc Nancy, La Communauté désavouée, op.cit., p. 131.

  29. [29]

    Jean-Luc Nancy, La Communauté désavouée, op.cit., p. 134.

  30. [30]

    Leslie Hill, Blanchot politique : Sur une réflexion jamais interrompue, Genève, Furor, 2020.

  31. [31]

    Leslie Hill, « À moindre frais : réponse à une polémique de Michel Surya », Espace Maurice Blanchot(https://blanchot.fr/a-moindres-frais-reponse-a-une-polemique-de-michel-surya-leslie-hill/).

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中田 崚太郎「「神話」をめぐる係争の現在——ミシェル・シュリヤ『なおさら(À plus forte raison) モーリス・ブランショ、1940-1944年』書評」 『Résonances』第13号、2022年、19-23ページ、URL : https://resonances.jp/13/mythe-blanchot-surya/。(2022年11月30日閲覧)

執筆者

所属:言語情報科学専攻修士課程(2021−)
留学・在学研究歴:なし