ビヨ=ヴァレンヌ『無頭政』と共和主義における執行権の編成
はじめに──共和国における「執行評議会」を考えるために
ときに登場人物たちを「演者(acteur)」と形容するフランス革命の顛末を一連の戯曲として鑑賞するならば、第二幕の開演を飾る1792年8月10日の民衆蜂起が当時の立法議会に向けて拒否権を乱発したため対立が激化していた国王ルイ16世の地位を停止し、最終的にはその廃位にまで到達する急展開には驚かされることになる。蜂起の翌日から、1791年憲法の枠内では単一の執行権の長であった国王の実権は、議会によって選出された複数の人物から構成される「暫定執行評議会(conseil exécutif provisoire)」へ移行する運びとなった。想定外の慌ただしい選挙を経て9月21日に召集された国民公会では、「フランスにおいては王政が廃止される」ことが宣言される。さらに翌日には、本日をもって「フランス共和国の元年」が始まるとする提案が喝采を浴びながら承認を受ける。後者を担った人物こそが本稿の主役であり、のちに公安委員会の一員として活躍しながらも同僚のロベスピエール派の処刑に一役買ったことから「テルミドール左派」とも称されるジャック=ニコラ・ビヨ=ヴァレンヌ(1756-1819年)なのであった[1]。
開会後の議会にとって喫緊の課題である「国王裁判」と、ひとりの市民に戻ったルイ・カペーの年初の処刑を終えた内憂外患の危機的状況のなかで、1793年2月15日にコンドルセを報告者として提出された憲法案を叩き台に4月以降から本格化する新憲法をめぐる激しい論争のひとつの議題となったのは、事実上すでに存在している共和国に相応しい「執行権の複数性」を事後的にではあれどのように組織すべきか、という問題であった。こうした討議空間におけるモンターニュ派とジロンド派の対立、そして後者に対する前者の勝利からいわゆる「ジャコバン独裁」に帰着するまでのエピソードは頻繁に語られるが、ラテン語の「レス・プブリカ」から派生した「政体としての共和政(république)」あるいは思想史的伝統における「共和主義(républicanisme)」についての理解は、それぞれの党派内部ですら意見を共有していたとは言えない状況であった点はあらかじめ指摘しておくべきだろう。そしてこの事実は、大西洋を隔てた18世紀末の二つの革命として並び称されるアメリカ独立革命との差異を語る上でも重要な視座を提供するものとなる。
前述した8月10日の民衆蜂起を招いた発端を探るとすれば、前年の1791年6月21日に発覚した国王のヴァレンヌ逃亡事件が大きな転換点となったことに疑いの余地はない。この出来事は君主政への失望を劇的に高め、それまではわずかな事例を数えるばかりであった共和政への政体変革を主張する立場のパンフレットが直後から多く出版されたが、そのなかでもとりわけ研究者の目を惹いてきたのがビヨ=ヴァレンヌによる『無頭政、あるいは連邦政府』(1791年)である[2]。例えば、憲法学者のジャン=ピエール・デュプラはデュムーリエの手記に登場する表現を援用しながら、「無頭の怪物(monstre acéphale)」としての執行権の編成という当時の論点に立脚し、議論の連続性のもとで1793年憲法における執行評議会を展望することに成功している[3]。また、この時期に浮上する「首領なき権力」といった発想は、近年邦訳が刊行されたピエール・ロザンヴァロンの『良き統治』でもビヨ=ヴァレンヌの名前とともに取り上げられており、彼らが構想した「執行評議会」が一制度の名称に留まらない思想史的な射程を備えた「概念」として分析されうる余地を示している[4]。したがって、この時期の執行権の編成についての議論の筋道を丁寧に辿ることは、1793年10月10日のサン=ジュストの演説で宣言される「革命政府(革命的統治)」までの理論的素地を把握するためには不可欠の作業となるに違いない。
一方で、その参照頻度とは裏腹に、『無頭政』の内容自体についてはさほど理解が深められていないように見受けられる。原文にして80頁に満たないこの小著に目を凝らせば分かるように、副題である「連邦政府(gouvernement fédératif)」の登場はわずか1回、主題である「無頭政(acéphocratie)」にいたっては本文中に言及すら見られないのだ。リュシアン・ジョームはこの著作を、わずか数年後に中央集権の象徴たる革命政府の理論化に貢献する人物が「連邦」の問題を肯定的に扱っているとしてその一貫性の欠如を揶揄するために活用しているが、拙速とも言いうるこのような傾向はけっして例外的ではない[5]。それゆえ『無頭政』は、当時の文脈に即した読解を通じてようやくその意義が掴める性質のテクストとして取り扱うべきだろう。
しかるに、本稿は『無頭政』の注釈のみに主眼を置いているわけではない。この著作の分析から浮上する新たな疑問とは、『社会契約論』の著者として、すなわちフランス革命の原点として設定されることが慣例となっているルソーの政治哲学が、当時の革命家たちにとって生まれたばかりの共和政を擁護するための絶対的な理論的拠点とはなっていなかったのではないかというものである。つまり、1793年6月24日に採択される新憲法では、統治の問題にあってルソーはむしろ乗り越えの対象だったのではないか。紙面の都合から最後の内容を深めるまでには達しないが、93年のジャコバン主義において執行評議会の構成が彼らの「統治=政府(gouvernement)」概念の賭金であるという筆者のテーゼの入口を提示することが本稿の目的となる。
1. 「原理」はいかようにも「適用」される──共和主義解釈のアンビヴァレンスと『社会契約論』
前段で断りなく用いた「93年のジャコバン主義」とその研究史上の問題点を論じるのは別の機会に譲るとして、この表現がカバーする時期については本稿の前提知識となるゆえ、簡単に説明を加えておこう。『フランス革命史』の著者であり、19世紀を代表する歴史家として知られるジュール・ミシュレは、テルミドール9日のクーデタによるロベスピエールの死をもって終焉を迎えるジャコバン・クラブにおける主導権争いの変遷に応じてジャコバン主義を三つの時期に分類した。その最終段階、すなわちジロンド派の中心人物と目されるブリソがクラブから距離を置く1792年秋頃からテルミドール9日のロベスピエール派の失脚までをミシュレの言うところの「93年のジャコバン主義」の範疇と見なすことができるだろう。それゆえ、フランスにとって歴史的に馴染み深い君主政ではなく共和政、より正確には「政体としての共和政」のもとでの「原理」と「適用」の総体を指す表現としても有効であると考えられる。この場合、君主政を維持していたそれ以前の時期よりもいっそう「共和主義」の語義の変化との関連が繊細に取り扱われるべきなのだが、十分に果たされていないのが現状である。
具体例を挙げながら検証してみよう。英語圏では革命史研究の大家として名高いキース・マイケル・ベイカーは自身の論文のなかで、当時のフランスにおけるこの思想潮流を「近代的共和主義」、そして「古典的共和主義の変容」の二つに区別し、それぞれジロンド派とモンターニュ派に対応する両者の敵対性が1793年にかけて頂点へと達したと主張している。革命期には代議制統治の穏和な運用を旨とする近代的共和主義(コンドルセ、ペイン)が確かに存在したにもかかわらず、マブリに象徴されるような18世紀フランスの文脈ではあくまで専制への対抗言語として用いられるに限られていた古典的共和主義の理解を前者に対抗させるべく時流に合わせて恣意的に歪曲したとして、マラ、ロベスピエール、サン=ジュストといったフランスに「恐怖政治」を招来した責任を負わされることの多い人物が順を追って論難されていく、端的に要約すればかような趣旨の文章である[6]。バンジャマン・コンスタンの「近代人の自由」と「古代人の自由」を即座に想起させるこうした議論は、革命までのフランス思想史を過度に図式化しているゆえに今日の研究水準に耐えうるものではないとする疑義が本国でも呈されていることからも明らかなように、問題含みと言わざるをえない[7]。
加えて、近著でいよいよフランス革命までをも研究対象に広げたジョナサン・イスラエルは、彼の言うところの「ラディカル啓蒙」(コンドルセ)と「ルソー主義」(ロベスピエール)の相克という視座から1793年の憲法論争を検討するが、彼もまたベイカーと同様の陥穽に、悪いことにはよりいっそう深くはまっているように映る。つまり、あらかじめ設定された二項対立を93年のジャコバン主義に適用した結果、それを留保なく「ルソー主義」と同一視する紋切り型の反復に終始しているのである[8]。戦後に本格化したルソー主義研究の蓄積は、たとえ政治的立場や社会階層が同一の場合であっても彼らのルソー読解がけっして一枚岩ではなく、さまざまなヴァリアントが混在していた事実をすでに解明している以上、われわれは先へと進まなくてはならない。政治的に近しいはずの人物たちによるルソー読解の齟齬はモンターニュ派内部にも存在するが、ベイカーの言葉を借りれば「近代的共和主義」の代表格たるジロンド派にもそれが見られることは触れておくべきだろう。コンドルセの手による1793年憲法草案の執筆を援助したと目される盟友トマス・ペインについて言及したヤニック・ボスクは、自由主義者として分類されることも多いコンドルセとは対照的にペインの「共和主義」理解はむしろ政敵であるところのロベスピエールに接近していると指摘した点で慧眼を備えている[9]。このような陰影は革命家たちの理論的テクストを丹念に分析する取り組みを経て発見されるものであり、すでに定着してしまった固定観念を掘り崩すためには不可欠となる。
ここまで論じた内容からも示唆されるように、少なくとも「共和政」や「共和主義」解釈については、場合によっては正反対のルソー解釈が共存することが革命期には起こりえたのである。いずれか、あるいは双方を「誤読」と断ずることにどれほどの意味があるかはさておき、この対象はルソーのみに限定されるわけではない。ベルナール・グレトゥイゼンはそのモンテスキュー論において、『法の精神』の著者が提示する政治的自由は1789年の革命家たちにとって不十分であり、さらなる展開が求められたことを説いた[10]。彼が光を当てた「原理」と「適用」が往々にして反目する問題は、ルソーを読む1793年の革命家たちにとってもかなりの程度当てはまると言って差し支えない。もちろん、『ポーランド統治論』や『コルシカ国制案』で本人も原理の適用を試みたとはいえ、ロベール・ドラテが指摘するようにルソーはあくまでも「原理の人」であったことは失念されるべきではなく、適用の問題を等閑に付したとして彼を批判するのはアナクロニズムの誹りを逃れられない重大な誤りだろう[11]。反対に絶えず変動する現実への原理の適用を自らの務めとした1793年の革命家たちにとって、「政体としての共和政」を肯定するためにはルソーの原理を読み換える必要に避けがたく迫られたのであり、彼らの統治理論はルソーの批判的読解によって練り上げられたことになる。こういった文脈を踏まえるのであれば、同じ「共和政」を論じているはずのルソーと93年のジャコバン主義のあいだには、一定の重なりを前提としながらも微妙な間隙が開いており、この隔たりこそが93年のジャコバン主義を思想史上で際立たせる最大の要素だと筆者は考えている[12]。
以上を加味すれば、次のように問うことも不当ではないだろう。このようなルソー解釈の揺らぎが生じる原因は、彼の主著である『社会契約論』(1762年)が様々な解釈を受け入れるだけの余白を残している点に由来するのではないか。言うまでもないが、本稿の意図は発展目覚ましいルソー研究に一石を投じることではなく、革命期を生きる人々が当時の水準で「読めた」、あるいは「読もうとした」ルソーを再現することにある。そう断りを入れた上で、『無頭政』と同じ出発点から執筆されたルソーの「共和政」理解の一例として、「セルクル・ソシアル」の機関誌である『ブーシュ・ド・フェール』を取り上げたい[13]。国王逃亡からわずか数日後に発行された号に掲載されている無記名の記事は、当時広く聞かれた共和政への政体変革の要請に異を唱えているが、意外にも『社会契約論』の内容に忠実に依拠した帰結として君主政支持を表明している方針に特徴がある。その論旨を辿ってみよう。
にわかに高まる共和政への期待に含まれる誤謬を「レス・プブリカ」の多義性に起因するものとして本文で立て続けに列挙されるのは、『社会契約論』第2編第6章の「法について」から引かれた以下のパラグラフである。ルソー自身の表記とは若干の異同が見られるため、ここでは正確を期すべく本人のテクストから抜粋する。
それゆえわたしは、いかなる統治形態のもとでそれが成立しようとも、法によって治められるあらゆる国家を共和国(République)と呼ぶ。なぜならば、この場合にのみ公共の利益が統治し、公共の事柄が意義を有するからである。およそ正当な政府というものは共和的である[…]。
わたしはこの語[共和政]をひとえに貴族政や民主政と解するのではなく、より一般的に、法であるところの一般意志によって導かれるすべての政府と解する。
正当であるためには、政府は主権者と混同されるべきではなく、その執行者たるべきである。この場合、君主政さえもが共和政となる。[14]
この記事の筆者が言うには、「レス・プブリカ」の語義である「公共の事柄(chose publique)」に合致する「国民に基づく政府(gouvernement national)」は「万人の意志」によって成立することのみが必要条件であり、こうした政府形態はローマを含む古典古代には存在しなかったものである。本号のエピグラフでは、上の引用を手直しするかたちで、「およそ正当な政府というものは、共和的すなわち国民に基づいている」と表記されている。こうした前提に立てば、当時盛んに議論が行われていた君主政か、あるいは共和政かといった選択を迫る統治形態に関する議論はさほど重要な論点とはならないことになる。古典的な意味での「共和政」という名に値する統治形態はヴェネツィアなどのイタリアの小共和国を含む近代にも存在しないと断じ、その実現不可能性から君主政の維持が妥当だと間接的に結論づける論理構成となっている。ルソー自身には君主政を論じる第3編第6章で「君主政(gouvernement monarchique)」と「政体としての共和政(gouvernement républicain)」を対比的に使い分けている用例が見られるとはいえ[15]、上記の引用から理解されるように彼の構想では「共和政」とは特定の統治形態を指すものではなく、フランスが慣れ親しんだ君主政の存在を無条件に排除するものではない。ルソーがはっきりと区別している「一般意志」と「万人の意志」の使い分けにやや危うさが残るものの、ここまで検討した『ブーシュ・ド・フェール』の筆者による読解はほとんどルソーのテクストに忠実だと認めうるものだろう。つまり、『社会契約論』におけるこの箇所のみに絞るのであれば、「政体としての共和政」の正当性を裏づける積極的な論拠を引き出すことは容易ではなかったのである。こうした制約を背景としながら、ビヨ=ヴァレンヌは『無頭政』を執筆することになる。
2. 「均衡」に基づく執行権の複数性──ビヨ=ヴァレンヌ『無頭政』をルソーに照らして読む
いよいよビヨ=ヴァレンヌの『無頭政』を論じるに当たって、まずは国王逃亡事件から10日ばかりを経た1791年7月1日のジャコバン・クラブでの「ヴァレンヌ氏(M. Varenne)」による次の発言から出発したい。
憲法制定権力を自任する国民議会があらゆる権力の検討から始めなかったことにわたしは驚いた。フランスに新たな憲法を約束したはずの国民議会が、旧政府の土台に基づいた規定をいくらか作って満足したことにもまた驚いた。国王の逃亡によって王座はほとんど転覆した今日にあっても、国民議会がそれを打倒する方策に専念していないことにはなおさら驚いている。それゆえわたしはこうした問いを論じることを決意したのだった。君主政と共和政、どちらがわれわれにとってもっともふさわしい統治形態なのだろうか。[16]
議事録の編者であるアルフォンス・オラールの見立てどおり、ここでの「ヴァレンヌ氏」をビヨ=ヴァレンヌと同定することはけっして強引ではない。だとすれば、上記の発言が彼にとっての最初のジャコバン・クラブへの介入となる。ロベスピエールやサン=ジュストと比較すると、この人物についての伝記的事実の解明および革命以前の理論的著作の検討は道半ばにすぎないが、それでも先行研究のあいだで概ね一致を見ているのは、ビヨ=ヴァレンヌが一貫した「政府」すなわち執行権に対する批判者であったこと、それに対する人民による監視を要求した人物だということである[17]。将来の国民公会議員たちの多くと同様に、国王逃亡は彼にとっても決定的な出来事であり、それ以前に書き連ねた著作からいくらかの断絶を生じさせる結果となった。のちに執筆される『共和主義の原理』では、「不実なるルイ16世の逃亡」とそれに続くシャン・ド・マルスの虐殺(7月17日)が自身の政治活動に及ぼした衝撃が率直に表明されている[18]。おそらく彼は前述のジャコバン・クラブでの発言に前後して、章立て等のない一筆書きのようなパンフレットを執筆することになる。それが本稿の分析対象となる『無頭政』なのである。こうしたコンテクストを前提として、以下ではその内容を追跡しよう。
「王権はその本性上、専制と結びついている」[2]と主張する著者は、「自由な国民とは法以外を主人としない国民である」[7]とする立場のもとで、自由を妨げる一者の統治としての君主政の再検討から議論を始める。執筆の直接的な動機となった「執行権の担い手」たる国王の逃亡は、フランスの国制における「根本的な悪弊」[7]が暴露された事例とされていることからも、この事件の影響の強さを窺い知ることができるだろう。ビヨ=ヴァレンヌの関心は、ヨーロッパにおいてほとんどの国が君主政を採用している状況下で、いかにしてもうひとつの統治形態、すなわち共和政を成立させるべきかという問題に集中していく。彼が提示する「一者の権力(pouvoir unitif)」か「集合的権力(pouvoir collectif)」かといった二者択一の問題設定[20-21]は、いみじくも『ブーシュ・ド・フェール』の著者が警鐘を鳴らしていた当時の論調であった。
本書を一読して強く印象に残るのは、イギリスの国制に対する批判的な立場である。イギリスは、「議会の成員の策略や強欲を経由して、国民の利益が絶えず主権者[国王]の野心の犠牲になる」[5]例として、全編を通じて否定的な評価が下されている。1789年の時点で最初の憲法委員会の多数を占めた「立憲君主派(Monarchiens)」がモンテスキューやド・ロルム、ブラックストンの影響を受けて二院制と国王の絶対的拒否権を主張した経緯はよく知られているが[19]、同様の著作が広く読まれていたアメリカ国内においても「イギリスの国制」に対する立場に大きな違いが見られる点は、フランスに舞台を移して活躍することになるペインに目を向けるのであれば自明である。ビヨ=ヴァレンヌの立場もペインに類するものとはいえ、彼のこうした傾向を当時のフランスに見られた「イギリス嫌い」の風潮に還元してしまうのは早計だろう。というのも、彼の批判の矛先は人権宣言第16条に記載された「権力の分立」それ自体へと向かうからである。ここで著者が取り上げるのが、「1789年10月5日のデクレ」、おそらくは人権宣言を受けた国王からの返答が当日の論題となった国民議会の立場である[27]。この箇所で槍玉に挙がるのは、フランスにおいてはすでに主権を喪失しているはずの国王のもとで「権力の分立」を実現することの困難となる。曰く、自由な国制を守るための予防措置としては「大臣およびその他の権力の担い手の責任」を明確に規定することが考えられるが、それを確立する手立てもまた法によって定められるものである以上、『無頭政』が刊行された時期にはすでに完成が近づいていた1791年憲法のように国王の人格を法の上位に設定し、彼に排他的な「最高の執行権」を付与するかぎり、「権力の分立」は空言となる定めにある。著者が簡潔にまとめているように、「権威(autorité)がすべてをなしうるところでは、法はなにひとつなしえない」[32]ことが、同年10月5日の国王の返答が暴露した国民議会の失敗なのである。かくして、ビヨ=ヴァレンヌは次のように述べる。
[…]国民議会は、人権宣言第16条において、「諸権利の保障が確立されず、権力の分立が定められていないあらゆる社会は、憲法を有さない」と述べるかわりに、政治的術数に沿った正確さでもって意思表示するべく、次のことを明確にしなければならなかったのだ。「諸権利の保障が権力の制限によって確立されていないあらゆる社会は、憲法を有さない」。[31-32]
ここでの「権力の制限(limitation)」に向けた手段の具体例が、スパルタやカルタゴといった古典古代に見られた最高権力の分割である[16-19]。前述の『ブーシュ・ド・フェール』が暗示するように、18世紀において近代の小共和国の存在はフランスにおけるこの統治形態の実現可能性を反証しているために、「政体としての共和政」を主張する側からは好んで参照されなかった。加えて、『社会契約論』では主権すなわち立法権の分割を断固として拒んだルソーも執行権のそれは許容しており、スパルタやローマで複数の人物によって「国王」の役割が分担された事例を好意的に取り上げていた[20]。つまり、古典古代の歴史は懐古趣味の対象に収まらず、各地で実験された数多くの制度が伝える柔軟性ゆえに革命当時の人々にとっても思索の着想源となりえたのである。征服に備えた軍事力の存在が古代の共和国を破滅へと導いたのに対して、近代の国民にとって彼らの隷従の原因はひとえに政府の不手際にあるとするビヨ=ヴァレンヌは、ここで「諸権力の現実的な均衡(balancement)」に基づいた執行権の編成を要求する[20]。単一の執行権しか認めない立場からの政府批判は、この点の理解が不十分なものとして撥ねつけられている[40]。
残された課題は、いかにして「集合的権力」を現実のものにするかということなるだろう。これを説明する段階でついに、ルソーの名前が引き合いに出されることになる。ところが、『ブーシュ・ド・フェール』と比べると奇妙なまでに、ビヨ=ヴァレンヌは特殊な手法でルソーから原理を抽出しようとしている[41-43]。言い換えれば、彼が依拠するのは『人間不平等起源論(第二論文)』(1755年)の「ジュネーヴ共和国への献辞」における次の箇所なのである。ここでもまた、ルソー本人のテクストから引用しておこう。
わたしが生まれることを望んだのは、機械仕掛けのすべての運動がけっして共同の幸福のほかには向かうことがないように、主権者と人民が唯一にして同一の利益しか持ちえない国であったことでしょう。こうしたことは人民と主権者が同一の人格でなければ起こりえないのですから、賢明にも節度を保った民主政のもとに生まれることを望んだということになりましょう。[…]というのも、政府の構成がどのようであったとしても、そこに法に従わないただひとりの人物が存在するのであれば、その他の人々は必然的に彼の意のままとなるからです。[21]
『第二論文』はビヨ=ヴァレンヌにとって重要な著作であり、『共和主義の原理』でも中心的な参照先であり続けている。『無頭政』でのルソー読解の最大の特徴は、「専制」あるいは「無政府状態(anarchie)」の定義から出発して君主政に対する共和政の優位を主張しようとしている点にある[22]。『社会契約論』でこの概念が取り扱われる第3編第10章を著者がどの程度意識していたかは確証できないが、ルソー自身は統治者が法を無視して主権を簒奪するとき、社会契約は破棄され国家が解体へと向かうとして、その帰結を「無政府状態」と呼んでいた[23]。ビヨ=ヴァレンヌによれば、一般に流布している主権のイメージは伝統的な絶対権力の観念を踏襲している。それを集合名詞である人民にそのまま適用することにより、意志の無限分割から生じる不和という誤解から、執行権の単一性を支持する人々が主張するような共和政と無政府状態の同一視が導き出されることになる。しかるに、上の引用に見られるルソーにおける主権者は恣意的権力(arbitraire)の許すままに行動しうるわけではない。『無頭政』の著者からすれば、恣意的権力とは行政官が一般意志ではなく特殊意志を優先することを妨げられない権力であり、むしろフランスにおける政府の現状を指す表現となっている[60-61]。つまり、ビヨ=ヴァレンヌにとっての「無政府状態」とは共和政ではなく絶対権力に固有の状態であり、主権概念の再定義なくしては君主政から専制への転落を阻止することは不可能だというわけだ。
それでは、君主政支持者に抗いながら、先ほど述べた「権力の制限」はどのようにして可能となるのだろうか。ここでまた、ビヨ=ヴァレンヌは18世紀における重要なテーマのひとつに触れることになる。それが広大な国家における共和政の問題である。古典古代とりわけギリシアの都市国家はあくまで限定的な領土と人口によってはじめて成立したものであり、それを近代で実現するのは困難だとするのが当時の思想史理解の常識となっていた。先に見たルソーからの引用にも登場する「節度を保った民主政」は、二つの条件が一定の範囲を超過しないことによって維持されるとする見解はけっして例外的なものではなかったのである。実際に、著者はルソー、マブリ、ヴォルテールの名前を列挙しつつ、国家の領土が広大である場合の均衡の成立を彼らが疑問視し、無政府状態の到来に警鐘を鳴らしている点を確認している[66][24]。こうした難問に異を唱えるべく立ち向かった著者の一群に、モンテスキューやヒューム、さらにはコンドルセの名前も加えることができるだろう[25]。この論争に飛び込むビヨ=ヴァレンヌの解答は、「中間権力(pouvoirs intermédiaires)」の導入である。先人たちに倣って代表制を前提として受け入れた上で、18世紀に発見された諸制度の「組み合わせ(combinaison)」に範を仰ぐことが、複数の集合的権力への分割を可能にするというのが著者の立場となっている[63-67]。具体的な方策については、次の一節が注目に値する。
したがって、中間権力あるいは承認権力は、補助的な行政府に、すなわち長とそれ以下の狭間に身を置く行政府に委ねらなければならない。こうした配置によって、国家のそれぞれの部分は別個に代表され、さらに言えば、市民全体が個別的に法の作成に関与することはなくなる。83のデパルトマンのうち過半数の投票によって承認を受ければすぐさま、この法は一般意志の産物となり、立法府の特殊意志をも導くようになる。[64]
絶対王政における執行権の恣意性は「大臣の専制」として革命以前から批判を集めていたが、国王逃亡を経てその標的がついに国王自身へと向かうに及んで、多くの論者が『社会契約論』で「政府」すなわち執行権が論じられる第3編の熱心な読解に取り組み、場合によっては批判的な結論に達した。かような「ルソー主義」の飛躍的展開はこの時期の論調を理解するために決定的に重要である。ここでのビヨ=ヴァレンヌの議論は直接ルソーを経由してはいないけれども、「中間権力」も執行権批判の立場から捉えるべきだろう。すでに確認したように、ビヨ=ヴァレンヌにとっての前提は共和主義的な自由の条件、すなわち法による支配であった。他方で、拒否権の名目で法を承認する権利を有する国王が上位に存在するかぎり、立法権の分割から生まれる上院では中間権力の役割は果たせないことになる。だからこそ、執行権の分割により「法の承認」の権限を国民に移譲することが肝要となる。無政府状態の到来を予防するためのこうしたアイデアまでを理解してはじめて、終盤にようやく登場する「連邦政府(gouvernement fédératif)」の含意が理解できるようになる[70]。アメリカのフェデラリストに「連邦共和国」という着想を与えたのがモンテスキューの『法の精神』だとすれば、ここでビヨ=ヴァレンヌがロックの名前を挙げているのは興味深い。当時普及していた『統治二論』後半部の仏訳に彼がどの程度親しんでいたのかは定かではないが、ロックが「連邦権(pouvoir fédératif)」という言葉を「立法権」や「執行権」とは区別される対外関係を担当する権力として位置づけていることに鑑みるに、両者のあいだで直接的な用語の継承が意識されているわけではなさそうだ。むしろ、後者が第13章第151節で指摘している、「最高権力」を自称する執行権の長に対する批判のバトンを受けとったと解するのが妥当かもしれない[26]。いずれにせよ、ここでの「連邦政府」がパリへの一極集中を嫌う1793年のジロンド派の立場とは異なる角度から発案されていることは間違いない。『無頭政』における「連邦」はあくまで「執行権の複数性」を念頭に置いたものであり、将来の執行評議会、さらには革命政府における公安委員会の編成までの理論的な発展段階を視野に入れて考察する必要がある。このように、本書に見られる独特な参照先の「組み合わせ」は、「政体としての共和政」が現実的な課題として突きつけられた国王逃亡後における試行錯誤のひとつの類型をわれわれに伝える好例なのである。
おわりに
1792年10月19日にビヨ=ヴァレンヌはジャコバン・クラブの影響力が希薄であった議会内の憲法委員会に対抗するべく設置されたクラブ独自の「憲法委員会」の一員に選ばれ[27]、ここから年始にかけての期間を『共和主義の原理』の準備に注いだと推定されている。前段で見たクラブでの演説や『無頭政』での発言はあくまで議会外部からの批判的言説であったのに対し、パリ選出の国民公会議員となってからの活動は一見すると前後の連続性が不明瞭である。『共和主義の原理』では「立法者」の所信表明としての側面が前景に出ており、ロックに対する読解の重点は「連邦政府」から「所有権」へと移行することになるからだ。だからといって彼の関心が執行権から離れたわけではないことは、パリのサン=キュロットによる後押しを受けて1793年9月に加入する公安委員会での旺盛な活動からも明らかである。
近年の優れた先行研究の書き手であるローラン・レヴェルソによれば、ビヨ=ヴァレンヌの執行権批判には「ローマ・ルソー的伝統」からの影響が色濃く反映されているという[28]。彼のこの表現にいかなる含意があるのかはひとまず措くとして、ここまでわれわれが確認した内容から判断すれば、執行権の複数性に対してルソーがどの程度影響を及ぼしたかについては即断を控えなければならない。アルベール・ソブール等によるジャコバン主義とルソーの関係性についての研究では、とりわけ1793年憲法以降は後者からの影響が希薄である、という主張が一般的となっている[29]。しかしながら、ビヨ=ヴァレンヌがなかばアクロバティックにルソーを活用せざるをえなかったように、『社会契約論』の著者が温めていた構想は、複数の理由から「政体としての共和政」を理論化する試みとは衝突していた事実を見落としてはならない。ともすればそれ以前から、少なくとも執行権の編成という観点からすればルソーはわれわれが想像する以上にフランス革命から距離があったのではないか、こうした疑念を抑えることは困難なのである。今日のルソー主義研究をリードし、残された論点はもはや存在しないのではないかと嘆息したくなるほどの大著を世に出したジュリアン・ブードンであっても、93年のジャコバン主義における執行権への不信をルソー由来のものとしながらも、行政の問題にさほど紙面を割かなかったルソー自身に「執行評議会」という問題設定が存在するかという点には明言を避けている[30]。したがって、統治におけるルソーの乗り越え、すなわち「アンチ・ルソー主義」という謎は依然として解明が待たれていると言いうるはずである。
Notes
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[1]
1792年8月10日から国民公会の開会、そして1793年憲法採択までの歴史的経緯については、主として以下を参照。Jacques Godechot, Les institutions de la France sous la Révolution et l’Empire, 5e éd., Paris, PUF, 1998, p. 273-289. その特殊な経歴も起因してか、ビヨ=ヴァレンヌの伝記は筆者の知るかぎり本国でも二点の出版を数えるのみであり、残念ながらいずれも19世紀末の時点で明らかになっている事項を焼き直した「一般書」の域を出るものではない。それゆえ、『社会体系の再生原理』(1795年)の校訂版に付されたフランソワーズ・ブリュネルの序文が依然としてもっとも適切な紹介となっている。Jacques-Nicolas Billaud-Varenne, Principes régénérateurs du systême social, introduction de Françoise Brunel, Paris, Publications de la Sorbonne, 1992, p.13-61. 近年では次の論文がその水準の高さから一読に値するが、後述のようにルソーの役割については筆者と相容れない主張が含まれている。Laurent Reverso, « La lutte contre la “gravitation liberticide” face à la “division du travail”. Quelques enjeux du rousseauisme sous la Révolution française à travers la pensée politique de Jacques-Nicolas Billaud-Varenne », in Alfred Dufour, François Quastana et Victor Monnier (éd.), Rousseau, le droit et l’histoire des institutions. Actes du colloque international pour le tricentenaire de la naissance de Jean-Jacques Rousseau (1712-1778) organisé à Genève, les 12, 13 et 14 septembre 2012, Aix-en-Provence, Presses universitaires d’Aix-Marseille, 2013, p. 277-300.
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[2]
本稿での『無頭政』からの引用は以下のリプリント版に依拠し、脚注が煩雑となるのを避けるため角括弧内にページ数を付記する。Jacques-Nicolas Billaud-Varenne, L’Acéphocratie, ou le gouvernement fédératif, démontré le meilleur de tous, pour un grand Empire, par les principes de la politique et les faits de l’histoire [1791], Paris, EDHIS, 1977. 革命初期も含めた共和政への渇望が記された一連のテクスト群については、以下のシリーズが貴重な資料集成として知られている。Aux origines de la République, 1789-1792, préface par Maurice Agulhon, notes par Marcel Dorigny, 6 vol., Paris, EDHIS, 1991. このなかに『無頭政』が収録されていない点には違和感を禁じえないけれども、あくまで出版社内での刊行年次が前後した程度の理由だと考えるのが妥当だろう。
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[3]
Jean-Pierre Duprat, « Le “monstre acéphale” dans la Constitution de 1793 », in La Constitution du 24 juin 1793. L’utopie dans le droit public français ?, textes réunis par Jean Bart, Jean-Jacques Clère, Claude Courvoisier et Michel Verpeaux, Dijon, Éditions universitaires de Dijon, 1997, p. 241-268.
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[4]
Pierre Rosanvallon, Le bon gouvernement [2015], Paris, Seuil, coll. « Points histoire », 2017, p. 52-54.
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[5]
Lucien Jaume, Le discours jacobin et la démocratie, Paris, Fayard, 1989, p. 345. 筆者がこの見解へと与することに戸惑いを覚えるのは、革命期を通じた「連邦(主義)」という表現の用法にそれほど一貫性を見いだせないためである。この問題については、以下を参照。Raymonde Monnier, « Représentations et transferts de la notion de république fédérative dans le contexte des Révolutions américaine et française », in Yannick Bosc, Rémi Dalisson, Jean-Yves Frétigné, Christopher Hamel et Carine Lounissi (dir.), Culture des républicanismes. Pratiques-Représentations-Concepts de la Révolution anglaise à aujourd’hui, Paris, Kimé, 2015, p. 173-184.
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[6]
Keith Michael Baker, « Transformations of Classical Republicanism in Eighteenth-Century France », The Journal of Modern History, vol. LXXIII, n° 1, 2001, p. 32-53.
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[7]
一例として、フランスにおける17世紀イギリス共和主義研究の気鋭による次の批判を挙げておく。Christopher Hamel, « L’esprit républicain anglais adapté à la France du XVIIIe siècle. Un républicanisme classique ? », La Révolution française [en ligne], n° 5, 2013.
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[8]
「ラディカル啓蒙」と「ルソー主義」の対決というイスラエルの解釈は、以下の段階で言及が見られる。Jonathan Israel, Une révolution des esprits. Les Lumières radicales et les origines intellectuelles de la démocratie moderne [2010], traduit de l’anglais par Matthieu Dumont et Jean-Jacques Rosat, Marseille, Agone, 2017, p. 226. 近著における1793年憲法に対してのこの枠組みの適用に関しては、次を参照。Jonathan Israel, Idées révolutionnaires. Une histoire intellectuelle de la Révolution française [2014], traduit de l’anglais par Marc-Olivier Bherer, Paris, Alma éditeur / Buchet-Chastel, 2019, p. 377-408. 彼一流の研究手法についてはすでに多くの批判が寄せられているが、以下が重要な文献となる。Antoine Lilti, L’héritage des Lumières. Ambivalences de le modernité, Paris, Seuil / Gallimard, 2019, p. 233-257.
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[9]
Yannick Bosc, « Liberté et propriété sur l’économie politique et le républicanisme de Condorcet », Annales historiques de la Révolution française, n° 366, 2011, p. 53-82.
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[10]
Bernard Grœthuysen, « Le libéralisme de Montesquieu et la liberté telle que l’entendent les républicains », Europe, n° 37, 1949, p. 2-16. 時間の試練により多少なりとも古びた感は否めないとはいえ、それでも先の大戦前後の18世紀研究に大きな足跡を残したこの人物が先鞭をつけた革命期における「原理」と「適用」の問題については、今なお学ぶべきところがあるように思われる。
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[11]
Robert Derathé, « Les rapports de l’exécutif et du législatif chez J.-J. Rousseau », Annales de philosophie politique, n° 5, 1965, p. 153.
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[12]
ここまで論じた本稿の立場については、以下の拙稿で提示した見通しから大きな変更はない。山下雄大「本性的社会性の肯定から政府批判へ ビヨ=ヴァレンヌとサン=ジュスト」、松浦義弘、山﨑耕一編『東アジアから見たフランス革命』風間書房、2021年、57-83ページ。
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[13]
『ブーシュ・ド・フェール』からの引用は以下に依拠するが、全体の通し番号やページ数の表記に混乱が見られるため、ここでは号数と刊行日、およびリプリント版の巻数のみを表記するに留める。La Bouche de fer [1790-1791], n° 73, le 25 juin 1791, t. VI, Paris, EDHIS, 1981.
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[14]
Jean-Jacques Rousseau, Du Contrat social, in Œuvres complètes, t. III, édition publiée sous la direction de Bernard Gagnebin et Marcel Raymond, Paris, Gallimard, coll. « Bibliothèque de la pléiade », 1964, p. 379-380.
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[15]
Ibid., p. 410.
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[16]
F.-A. Aulard, La Société des Jacobins. Recueil de documents pour l’histoire du club des Jacobins de Paris, t. II, Paris, Jouaust, 1891, p. 573-574.
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[17]
研究史上の論点整理などは、前掲のブリュネルによる序文に詳しい。また、次の伝記的研究によれば『無頭政』の刊行は1791年8月だと推定されるが、国王逃亡事件およびクラブでの演説からの時間的経過を加味すれば一定の説得力を有している。Jacques Guilaine, Billaud-Varenne. L’ascète de la révolution (1756-1819), Paris, Fayard, 1969, p. 41-42.
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[18]
Jacques-Nicolas Billaud-Varenne, Éléments du républicanisme [1793], in Archive Parlementaires, t. LXVII, p. 221. 本書のオリジナル版はフランス国立図書館(BNF)のデジタルコレクション(Gallica)で閲覧可能とはいえ、上に挙げた議事録に収録されているヴァージョンとは異なり、冒頭の「趣意書」が掲載されていない点に注意が必要である。
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[19]
仏訳が革命期のさなかに登場する『フェデラリスト』が革命家たちにどの程度読まれたかに関しては現時点では判断を控えざるをえない一方で、アダムズが立憲君主派に対して与えた確固たる影響については以下を参照。Denis Lacorne, L’invention de la République américaine, rééd., Paris, Hachette, coll.« Pluriel », 2008, p. 187.
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[20]
J-J. Rousseau, Du Contrat social, op. cit., p. 403.
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[21]
Jean-Jacques Rousseau, Discours sur l’origine et les fondements de l’inégalité parmi les hommes, in Œuvres complètes, t. III, op. cit., p. 112.
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[22]
ここでのビヨ=ヴァレンヌの「無政府状態」の用法は、概念史研究の側からも注目されている。Marc Deleplace, L’anarchie de Mably à Proudhon (1750-1850). Histoire d’une appropriation polémique, préface de Michel Vovelle, Lyon, ENS Éditions, 2001, p. 57.
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[23]
J-J. Rousseau, Du Contrat social, op. cit., p. 423. ブリュネルに基づくならば、彼が明確に『社会契約論』の内容を意識した議論を展開するのは『無頭政』執筆以降の時期、より具体的には1791年10月16日の「亡命に関する演説」からということになる。Françoise Brunel, « L’acculturation d’un révolutionnaire. L’exemple de Billaud-Varenne », Dix-huitième siècle, n° 23, 1991, p. 273. 無論、テクスト上に明示的な言及が見られなくとも著者の念頭にあった可能性は排除できない。
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[24]
この箇所に言及した先行研究として、以下を参照。 M. Deleplace, L’anarchie de Mably à Proudhon (1750-1850), op. cit., p. 71-72.
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[25]
Philippe Raynaud, Trois révolutions de la liberté. Angleterre, Amérique, France, Paris, PUF, 2009.
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[26]
なお、ロック自身は執行権の分割までには議論を進めていない。『無頭政』に先立つ著作も用いてビヨ=ヴァレンヌの理論的参照先を検証したブリュネルは、ビヨ=ヴァレンヌの初期の著作に登場する自然法学派に着目し、「諸権力の均衡」というアイデアはビュルラマキから着想を得たのではないかと推測している。F. Brunel, « L’acculturation d’un révolutionnaire », art. cit., p. 271-272.
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[27]
F.-A. Aulard, La Société des Jacobins, op. cit., t. IV, 1892, p. 404-410.
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[28]
L. Reverso, « La lutte contre la “gravitation liberticide” face à la “division du travail”», art. cit, p. 294.
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[29]
ここでは代表的なものとして以下を挙げる。Albert Soboul, « Jean-Jacques Rousseau et le jacobinisme », in Études sur le Contrat social de Jean-Jacques Rousseau, Paris, Les Belles Lettres, 1964, p. 277-290.
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[30]
Julien Boudon, Les Jacobins. Une traduction des principes de Jean-Jacques Rousseau, préface de Frédéric Bluche, Paris, LGDJ, 2006, p. 307.
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山下 雄大「ビヨ=ヴァレンヌ『無頭政』と共和主義における執行権の編成」 『Résonances』第15号、2024年、ページ、URL : https://resonances.jp/15/lacephocratie-de-billaud-varenne/。(2024年11月21日閲覧)