Résonances

東京大学大学院総合文化研究科フランス語系
オンラインジャーナル
Résonances 第16号 | 2025年11月発行
翻訳

ある知られざる論争について

Yves Chemla, « D’une obscure polémique », Il Tolomeo, vol. 21, 2019, p.69-101.

翻訳:浅野 千咲
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[1]

解題——1958年の早春、後に三十年間続く独裁政権として知られるようになるデュヴァリエ政権が誕生して約半年後、ハイチの日刊紙La Nouvelliste上にて類を見ない論争が展開した。ジャック・ステファン・アレクシ(Jacques Stephen Alexis, 1922-1961)とルネ・ドゥペストル(René Dépestre, 1926-)[2]という、20世紀中盤のハイチ文学を代表する二人の作家の間で交わされた苛烈な応酬は、当初の論点から徐々に肥大し、互いに互いをデマゴーグと言い張り、相手の作品を文字って罵り合い、ついには人格を貶める中傷へと発展した。国内の左派系知識人と芸術家への信頼を失墜させたと評されるこの論争から三年後、秘密裏にハイチへ上陸したアレクシは、デュヴァリエ政権直轄の秘密警察に拘束され、そのまま帰らぬ人となる。

ハイチという国では〈文〉と〈政〉が密接に連動してきた。特に20世紀中盤には、ハイチ文学のなかで最も広く読まれている小説の一つ、『朝露の主たち』(Gouverneurs de la rosée, 1944)[3]の作者ジャック・ルーマンがハイチ共産党の創設者でもあったように、『おじさんはかく語りき』(Ainsi parla l’oncle, 1928)の作者ジャン・プリス=マルスが大使や国務長官を歴任した政治家でもあったように、あるいはフランソワ・デュヴァリエが民族学者、文筆家でもあったように。いかなる評価が与えられるにせよ、筆を執る者には〈行動者〉や〈革命者〉の役割を担うことが期待され、その逆も然りであった。それが人々の〈灯台〉となるハイチの知識人像だったのである[4]。20世紀後半になると武器ではなく、ペンのみを選択する世代が登場してくるが、本稿での中心人物アレクシとドゥペストルは、〈灯台〉となる知識人像を引き受けた最後の世代に属すと言えるだろう。だからこそ両者の間の舌戦には、あらゆる対抗勢力を退けて台頭する独裁政権を前にして、シュルレアリスムやネグリチュードを始めとする〈外〉の思想を前にして、ハイチの知識人に突きつけられた、政治的とも文学的とも言える問いが結晶化されている。

本稿で翻訳するのは、仏語圏文学はおろかハイチ文学史、運動史のなかでもほとんど言及されてこなかったこの論争を具に追った唯一の論考である。原文は1995年にヴェネツィア・カフォスカリ大学のポストコロニアル理論家、批評家を中心に創刊され、現在でも主にフランス語圏、英語圏、ポルトガル語圏文学に関する論文が掲載される機関誌Il Tolomeoに収められている。著者イヴ・シェムラ氏はパリ第五大学で教鞭をとった仏語圏文学者であり、1995年以来更新されていなかったハイチ文学史を編み直した人物である。氏の日本語で読める論考として、渡邉芳敬氏により邦訳された「ハイチ文学、叫びの極限にあるエクリチュール」が『現代思想』のクレオール特集号(1997年)に掲載されている。

翻訳の詳細の要領は次の通りである。原文で現在時制が用いられている場合でも過去時制で訳出するなど、時制については原文への忠実さよりも日本語にした際の分かりやすさを優先した。固有名詞等、訳者の判断で強調した箇所は一重山括弧〈〉、原文中で一重引用符が用いられている箇所は二重山括弧《》、原文で二重引用符が用いられている箇所は一重鍵括弧「」、訳者が補った部分は、原注においても一重角括弧[]で示す。原文中で二次資料として引用されている文献の著者名については、ファーストネームはアルファベット一文字で省略し、姓名のみをカタカナで表記する(例、M・セオネ)。本文中に割注として出典を示す場合には、アルファベット表記のままとする。原注には本文中の各該当箇所に通し番号を赤色で付し、訳注を付す場合には青色で付す。原文中、大文字で強調されている箇所には傍点を付した。

 

はじめに

1958年のポルトープランス[訳註1]において、ジャック・ステファン・アレクシとルネ・ドゥペストル[訳註2]の間で激論が交わされ、それは互いの憎悪を露わにするような対立へと発展した。これは一見すると意外なことに思われる、というのも、二人は闘争を共にした盟友であり、1946年には時のレスコー政権に対する国民の不満を結晶化したような若者たちのグループに属し、抗議活動を通じてその政権を打倒した立役者だったのである。この闘争により彼らは名声を得て、若きリーダー(当時それぞれ24歳と22歳であった)として認められる存在となったものの、同志であるジェラール・ブロンクールの国外追放に続く形で、ハイチをあとにすることとなる。亡命中の二人はそれぞれ異なる道を歩んだとはいえ、フランスの、そして各国の共産運動に寄り添う立場をとった。ここにつけ加えるなら、二人の激しい論争は書き言葉の文学史には記録されていない。にもかかわらず、この件について話を持ち出すと、複数の関係者が、論争は確かにあった、しかも苛烈なものであったと証言するのである。その出来事はL-F・ホフマン[1]の編んだ精緻な年表には記載されていない。M・セオネによるアレクシの伝記のなかでも触れられていない。ただしセオネはアレクシとドゥペストルの間に生じた確執については詳述しており、1961年のハイチ上陸の際アレクシが消息を絶ったことにまつわる陰惨な噂についても言及している。しかしその語り口ははっきりしたものではない。ソ連およびキューバの政治機関は、数多くの対立が生じ、展望を共に打ち立てることが困難であるとして、ハイチ人亡命者全体に対してあまり良い印象を抱いていなかったようだ、というのである。他方で、ソ連と共産党統治下の中国が交戦寸前の緊張状態にあったとき、アレクシは主に中国の指導層に支持されていた。その中国側からの働きかけによって何かが起こった可能性も否定できない。さらにアレクシはキューバの政権とはあまり関係が良好でなく、特にエベルト・パディージャ裁判以降は関係が悪化していたため、キューバ当局が詩人アレクシのイメージを徹底的に傷つけようとして、こうした噂が広められたのだとしてもおかしくはない。

アレクシとドゥペストルの論争はその背景を踏まえて捉えるべきだろう。この論争はハイチの歴史に痕跡を残しており、数十年を経た今日でもなお、その反響が残っている。本稿執筆に際して、二つの資料に依拠して分析を行った。第一に、1956年から1958年にかけて日刊紙『ル・ヌヴェリスト』[訳註3]に掲載された記事を保存したデジタルアーカイブ。これは〈カリブ海デジタルライブラリー〉(www.dloc.com)[訳註4]で閲覧可能である。もっとも電子化の質が良くないため、ところどころに読みづらさがあることは否めない。それでもこの新聞を観察する、あるいはざっと目を通してみるだけでも、非常に強い印象を受けることがある。たとえば、数多く掲載されている広告にみられるように、ハイチの人々の外見上の特徴の多様さがきわめてよく映し出されていたりする。たとえば媒体自体と、ディスクールの基盤となる世界の描き出し方と、個々の記事が伝えんとする現実との間にある乖離が印象的であり、奇妙にすら映るのである。これを初見の所感とした上で、問題となる1958年2月5日から3月22日にかけて掲載されていた記事を見ていくことにしよう。

第二のソースは、2007年に発表されたL・ペアンの著作『ハイチの歴史、腐敗の政治経済—マクートによる〈野蛮化〉とその帰結(1957-1990年)』[2]の第四巻とする。

 

1. 論争の背景

論争の端緒は、1956年のあの会議で採られた決定にある。アリウン・ジョップが音頭をとった〈第一回黒人作家芸術家会議〉の際に創設された〈アフリカ文化協会〉(SAC)[訳註5]は、1958年にユネスコから諮問機関として認定され、アフリカ、米国、ハイチの三か所に支部が置かれた。『プレザンス・アフリケーヌ』が事実上その連絡会となり、各支部は実験的試みの場であり、思索の場であり、交流の場と見なされた。SACは、1959年にローマで開催された〈第二回黒人作家・芸術家会議〉や、各国の独立後に行われた複数のフェスティバルを企画、運営した。たとえば、1966年にダカールで開かれた第一回黒人芸術祭や、同じ芸術祭の1969年アルジェ大会もSACの主催であった。こうしたイベントに併せて組織された討論会や継続的な活動を通じて、人権や経済的権利、女性の地位、開発途上国の問題への対策といった諸課題が議題にのぼり、話し合われていく。そして月日と世代が移り変わるなか、当時の社会が一党制を始めとする独立後の政治体制や、新たな形で残存してしまった植民地主義的支配のあおりを受けるにつれて、こうした議論には調整や修正が加えられていったのである。あたらしい世界を見据え、構築するこのような試みにおいて、過去、先駆的に脱植民地化を果たし、勝利の身振りをとってみせたことから、ハイチの思想は重要な位置を占める可能性があったことは認めざるを得ない。しかしその仕掛けは国内の情勢不安のために動きを止めてしまった。加えて1957年、ハイチ当局が国を閉ざしたこともこの〈停止〉の大きな要因であった。[ハイチの]知識人が生み出すものには[海外の情勢との]乖離が生じるようになり、彼らの努力はデュヴァリエ政権への抵抗を模索し、そこにむけて行動することへと向けられていくのであった。

ポルトープランスでは、1958年2月から3月末にかけての一か月間に、SACハイチ支部の設立をめぐる論争が激化していく。アレクシは組織設立の中心的人物になると期待されていたようである。しかし実際には、設立会議に招かれはしたものの、その会議を主導したのはドゥペストル[3]だったのである。そこから両者は自身の正当性を主張するようになる。二人の争いはSACの枠をはみ出し、政治的要素を孕みつつ、オピニオンリーダーたる者の社会的位置づけそのものに関わる問題へと発展していくのであった。

その結果は悲惨なものとなる。左派系知識人および芸術家への信用の大部分が、罵倒にまで発展していくこの応酬のなかで粉々に砕かれてしまうのである。しかし報道から、とりわけ『ル・ヌヴェリスト』紙から垣間見えるのは、この論争がまったく何も残さず終わるわけではないということだ。陰に隠れて、しかし目に見える形で、この論争は、ハイチの新たな権力者、フランソワ・デュヴァリエに利を生んでいたのである。

 

2. ヨーロッパ時代のアレクシ

論争のなかでは1946年から1957年までの出来事についても言及されているため、ここで一度その時代に立ち返ってみるのがよいだろう。この時期は失望の時代であった。アレクシのもとではその失望は時に穏やかな形をとるのだが、ドゥペストルにとっては非常に鋭いものであったようだ。論争が起こった時期は、自らのけじめをつける時期でもあったのである。

レスコー大統領が亡命してすぐ、アレクシを書記長とする〈公共救済委員会〉を有した〈統一民主戦線〉が結成されたものの、軍部が権力を掌握してしまった。その直後、アレクシはハイチ共産党に加入する。1946年5月、デュマルセ・エスティメが大統領に選出される。アレクシはこれに抗議し、投獄された。しばらくして釈放されると、医学の最終試験を経て博士号を取得し、ヨーロッパへ渡った。アレクシ24歳のときである。パリでは複数の病院で研修を受けた。〈青年共産会〉にてフランソワーズ・モンテと出会い、1949年に結婚。1951年には娘フロランスが誕生する。アレクシは〈フランス共産党〉が主催、あるいは提携する会合に参加し、1949年には〈第一回平和支持者会〉、1953年にはブカレスト青年祭に出席した。徐々にアレクシは、先達であるジャック・ルーマンが成したような、ネットワークを構築していったのである。まず築かれたのは友人関係や政治方面での人間関係であり、このつながりはアレクシの政治的、地政学的な経歴において重要な役割を果たすこととなる。加えて左派の作家、共産党に近い、もしくは党員である作家や、カリブ海や南米で名を馳せていた作家との出会いも果たしている。たとえばエメ・セゼール、ニコラス・ギジェン、パブロ・ネルーダ、ジョルジェ・アマード、さらにレオポルド・セダール・サンゴールやルイ・アラゴンの名が挙がる。アレクシは1954年に小説『太陽将軍』[訳註6]を書き上げ、同作は1955年にすぐさまガリマール社から出版された。しかし1954年末にアレクシがパリを離れる。キューバ、メキシコ、グアテマラを回った後、1955年2月にポルトープランスに帰還する。そこで『音楽家たる樹々』の執筆に取り掛かるのだった。また、ポルトープランス総合病院にも勤務した。しかし同病院で大臣職にある人物が死亡したことを受け投獄され[4](この事件から〈無遠慮な医者アレクシ〉の伝説が生まれた)、その後ハイチその後ハイチ医師会から圧力がかかったことにより釈放されるが、この一件により自身が監視対象となったことを知ることとなる。アレクシは18か月間ハイチに滞在したが、その間の活動は精力的であった。まず、ハイチらしい日常生活との再接続に努めた。M. セオネの引用する、1955年11月に発表された「ジャック・ルノワールへの公開書簡」においてアレクシは、ドゥペストルが現実のハイチとの関係を回復しようとしないことを咎めている。

私たちが、過酷な亡命生活によってルネ・ドゥペストル何某という人物を己の生き生きとした源泉から切り離されているのだと言うとき、実のところ念頭にあるのはまさにそのことなのだ。それによって彼は形式の問題に迷い込んでしまう。自分をハイチらしい日常生活と繋いでくれる「へその緒」が今や極めて細く、もはや切断されていると言っても過言ではないのだから……。(Séonnet 1983 : 63)

アレクシは数多くの集会に参加しつつ、小説『音楽家たる樹々』の執筆を続ける。知識人としてのこの作業はハイチ文化の構造をなす敵対関係の諸相を問うものであり、同時にそれはこの小説の心臓部となっている。

1956年になるとアレクシはパリにおり、フランソワーズとの離婚手続きをとっていた。このパリ滞在の初期には、ソルボンヌ大学デカルト講堂で三日間に亘って開催された〈第一回黒人世界作家芸術家会議〉に参加している。同会議においてアレクシは『ハイチの民の驚異的レアリスムレアリスム・メルヴェイユへの緒言』を発表した。これは史上初めて現代ハイチ文化を理論化したものであり、その影響力は六十年以上経た今なお保たれている。1957年5月までアレクシはフランスに滞在し、主にムーラン・ダンデ[訳註7]に住まって執筆に励んだ。『音楽家たる樹々』が1957年に完成、出版されると、アレクシは小説『まばたきの間に』の執筆に取り掛かった。この原稿は恐らく、『星へのロマンセロ』と共にガリマール社に提出されたのだろう。3月16日付の『ル・ヌヴェリスト』紙には、『レ・レットル・フランセーズ』誌に掲載されたソフィ・ブリュイユへのインタビューが転載された。「ジャック・アレクシの近刊書」と題されたこの記事では、「1941年から1944年を描き出す一大物語」である『音楽家たる樹々』と、「ポルトープランスで《働く》娼婦の物語」である『両目に咲く薔薇の花』の刊行が告知されている。勿論『まばたきの間に』も言及されている。また、現在行方が分からなくなっている作品についても触れられている。失われた二つの戯曲、そのうち片方はクレオール語で書かれた『ロシニョールはトゲバンレイシを食った』[訳註8]である。加えて、1929年の恐慌を米国の富豪一家の視点から描く小説も言及されている。

1957年5月25日、アレクシがポルトープランスに到着する。

アレクシはヨーロッパじゅうを巡ってきた。コミュニストやスターリニストの活動家と交流し、ハンガリーの動乱についてはアラゴンの側に立ち、唯物史観に基づいて自身の思想を築いてきたのである。5月25日、この日のポルトープランスは大混乱に陥っていた。ジェラール・ピエール=シャルルは次のように記録している。「残されていた課題は、《驚異的レアリスムレアリスム・メルヴェイユ》と、実践からのみ生まれる、この国の物事や人々に対する真の認識の間に結びつきを作る困難な作業であった」(Séonnet 1983 : 139)。デュヴァリエを前にして、政治勢力は分散した。1957年9月22日、デュヴァリエがハイチ大統領に選出される。その後は多くの政治裁判が開かれた。1958年2月26日、アレクシは『ル・ヌヴェリスト』紙上に記事を発表し、友人ルネ・ドゥペストルに対する批判を述べている。[ここから]この苛烈な論争が始まり、辛辣な口調で展開されていくのである。この論争は1958年3月22日まで『ル・ヌヴェリスト』紙面上で続けられる。同年12月31日、アレクシはアンドレ・ルメルと結婚する。

1959年7月、ソビエト作家同盟第三十回大会への招待を受け、アレクシはモスクワへ向かう。

 

3. ドゥペストル最初の遍歴

アレクシ同様、1946年に軍事政権に脅かされ、投獄もされたルネ・ドゥペストルは、同年8月にデュマルセ・エスティメが大統領に選出された後、ハイチを後にする。ハイチ政府奨学生としてパリに渡り、文学と政治学を専攻する。1944年に邂逅を果たしていたセゼールにパリで迎えられ、彼の紹介でフランス共産党の幹部らと面会した。ドゥペストルはネグリチュードの運動や脱植民地化運動に関心を持つようになっていた。1949年にはハンガリー系のエディット・ゴンボスと結婚している。政治活動を理由にフランスから追放されたドゥペストルは、チェコスロヴァキアへと渡る。夫妻は、スターリニストによって牛耳られた国での現実を目の当たりにし、衝撃を受けた。とりわけ、エディット・ドゥペストルがイスラエルの手の者であると非難され、反ユダヤ主義の標的となったことが強烈であった。スラーンスキーとその同胞が裁かれた裁判は、社会主義諸国の現実、なかでも自らの子どもを食らうような体質を夫妻に突きつけた。ドゥペストルの自伝『優しさよこんばんは』[訳註9]に収録されている『ユマニテ』紙の記者ピエール・クルタードとの1951年の対談は、このような現実はすでに周知のもの、共有されていたものであったことを物語っている。

ジョゼフ・ジサリオノヴィッチ・ジュガシヴリ、我々の知を導くあの最高指導者は、クレムリンの悪党中の大悪党だ!彼と最も親しい共犯者、ラヴレンチ・パヴロヴィッチ・ベリヤは、斧を手にした海賊のような極悪人だ!揃いも揃って彼らは歴史上もっとも凶悪な海賊団の一味なのだよ。[…]君たち夫妻が被った試練など、ヴェネツィアのカーニヴァルでの恋物語みたいなものさ。今この瞬間にも、シベリアの雪が、魂と肉体が絶望する冬の只中で、憎しみと軽蔑の吹雪となって、何万もの無実の人々の孤独と悲惨と嘆きの上に渦巻いていることに比べたら。(Dépestre 2018 : 66)

1951年、ブラジル・バイア出身のジョルジェ・アマードがルネを秘書として雇う。1952年には、キューバの詩人ニコラス・ギジェンの招待を受け、夫妻でキューバへの渡航を試みる。しかしハイチ当局によって共産党工作員と告発され、夫妻は逮捕、そして国外へと追放された。今度の追放先はイタリアであったが、ビザは発行されなかった。彼らはフランスへと密入国し、ジェラール・ブロンクール[5]の手引きで身を隠したものの、再び国外追放となり、その後は共産党の指示によりオーストリアへ渡り、同年12月に開催された〈世界平和会議〉の準備に参加することとなった。その後夫妻はアルゼンチンへと渡り、さらにジョルジェ・アマードの招きでサンパウロへ出向き、そこで約二年間、地下活動をつづけながら暮らす。その間、ルネは軍事訓練を受ける。1955年、サンゴールが介入したことによりビザが下りたため、夫妻はフランスへと戻る。ちょうどその頃、ブラジルでは1964年のクーデターと軍事独裁へとつながる動きが始まりつつあり、ドゥペストル夫妻にも不安が押し寄せていた。この1955年という年は、〈国民詩〉をめぐってドゥペストルとエメ・セゼールの間で衝突が起こった年でもある(Douaire-Banny 2011を参照せよ)。ドゥペストルはいくつもの要請と期待のはざまに身を置いた。『プレザンス・アフリケーヌ』誌に掲載された「エメ・セゼールへの返答」という文章は、自身が『レ・レットル・フランセーズ』誌に寄せたシャルル・ドブジンスキ宛の書簡に対して、セゼールが激しく反発したことを受けて書かれたものであり、その中でドゥペストルは、長らく否定されてきたハイチ詩を改めてハイチ国民の展望のなかに位置づけようとした。ドゥペストルの立場を要約するような一文が文章のなかにある。「クレオール語とは、民衆の創造的精神の復讐、フランス文化の生命力を封じ込めてきた封建的なエリートたちの蒙昧主義に対する復讐だ」。ドゥペストルこのテクストはまず文学に関する考察に特化している。第三部では宗教問題、特にハイチにおけるヴォドゥ[訳註10]の位置づけが論じられており、セゼールの書いた、民間信仰が無駄なものであるとでも言うかのような文章に対する反論が展開されている。しかしその後はネグリチュード運動をめぐる論争へと立ち戻り、アラゴンによるシュルレアリスム批判や、『レ・レットル・フランセーズ』誌におけるセゼールの意図的な不在が言及される。この考察はさらに、アラゴンがもたらした〈詩的閉鎖〉への批判へと続いていく。ドゥペストルによると、アラゴンは詩の韻律の長い歴史における、今日的な達成としての自由詩を否定しているという。ここで問題となっているのは、新規性と現代性を模索する、〈国民詩〉の定義そのものであるとすら言えるだろう。「新しい表現を通して、大衆の感受性が国民的感情を表すことはできないものか? 」。ドゥペストルはそう問いかけている(Dépestre 1955 : 53)。だがこの問いかけによって、彼がセゼールを中心とした『プレザンス・アフリケーヌ』誌のグループから信頼を得ることはなかった。この時点で何より重要なのは、反植民地主義の取り組みを、政治的なものであれ文化的なものであれ、あらゆる規定づけに対する抵抗として位置づけることであった。フランス共産党やアラゴンからのいかなる指示に対しても、聞き入れるわけにはいかなかったのだ。同時に、共産主義のうちにある権威主義への反抗も、ドゥペストルのなかで進行していることが見て取れるだろう。その反抗の道筋は、セゼールという問題を介しても表れている。

1956年、ドゥペストルは『プレザンス・アフリケーヌ』の会議に出席する。その後しばらくはムーラン・ダンデに滞在し、数多くの作家と出会った。『レ・レットル・フランセーズ』誌には、スターリン主義との決別を表明する手紙を発表している。3月以降に公表されたフルシチョフ報告、そしてハンガリー動乱での弾圧は、その後のドゥペストルのアンガジュマンを決定づける明確な分岐線となった。

ハイチでは新たな局面が、表面的にでも開かれようとしていた。1957年、時のマグロワ政権の崩壊を受けて、ドゥペストル夫妻はハイチへの帰国を決意する。1957年1月18年の『ル・ヌヴェリスト』紙にて、ドゥペストルは自身の帰郷を次のように告知している。

私は心から信じている。私たちの国の、あらゆる愛国者が共通してもつ関心を軸として、民主的な結集が可能であると。そこに、私たちの間に起こりうるちょっとした意見の相違は関係ないのだと。私は信じている。今私たちがすべきは、哲学的、あるいは宗教的な差異はひとまず脇に置き、自由な議論の精神のもとで、勇気をもって、ハイチの物質的、精神的な生の水準を高めるための具体的な手段を模索することであると。

3月23日号の一面には、母リュック・ドゥペストルから臨時大統領フランク・シルヴァンに宛てた手紙が掲載されている。「息子ルネ・ドゥペストルは、家族や祖国との再会の喜びを見据えながらも、常に民主主義のために闘ってまいりました。祖国においても、海外においても、彼はポール・マグロワの忌むべき業績を打ち壊すことをやめたことはありません」。ドゥペストルの帰郷は12月20日に発表されている。帰国後すぐさま、ドゥペストルはヴェルティエール、シャリエ、バリエール・ブテイユといった旧跡を訪れ、祖国の歴史と建国の原点に「身を浸す」ようにして向き合うのだった。

1957年9月22日に選出された大統領は、幼馴染で、かつての隣人で、トランプの遊び仲間であった。ドゥペストルはこれが最後の帰郷になると信じ、自身の蔵書をすべて持ち帰っていた。

 

4. 一次資料の不安定さ

1958年2月26日から3月22日にかけて、二人の盟友の間で激しい論争が繰り広げられるわけだが、その内容は些末な側面にも及ぶ。とはいえこの論争の詳細に踏み入る前に、それが展開された文脈を明確にしておく必要があるあろう。

1957年の『ル・ヌヴェリスト』紙第一面からうかがえる出来事を簡単におさらいすることで、1958年に勃発する論争の背景を知ることができる。しかしながら〈カリブ海デジタルライブラリー〉上で1957年6月から10月までのデータが欠落している点には注意が必要だ。また、電子化の質も十全ではない。コントラストが弱いために一部が読み取りづらくなっていたり、研究者にとっては歯がゆいことに、号ごとの分類にもいい加減なところがあったりする。このサーバーにはメンテナンスが必要だろう。

 

5. 1957年—暴力的な空気の醸成

ポルトープランスにおいて1957年といえば大統領選挙の年である。司法の腐敗が広がり、特にデュヴァリエ自身が主導した、しばしば暴力を伴う暴動に関する政策評価の際には、腐敗は拡大の一途を辿っていた。腐敗という語の第一義は、分解や物理的な腐敗であるわけだが、この意味での腐敗が1957年の時点で増大段階にあったのである。これは1946年の革命の理念が道を踏み外していく過程の一端を担っている。ここで取り上げる二人の作家はいずれも、1946年のその革命において最前線に立っていたのだった。L・ペアンは次のように補足している。

ここでいう腐敗とは、真実の歪曲である。1946年の理念に関する誤った情報が広まり、その理念を実現するにはフランソワ・デュヴァリエと共に中産階級が再び権力を握ることが必要なのだとの見方が流布されることで、真実が捻じ曲げられる。だが腐敗とは日々着々と構築される力でもあり、被害者意識に基づくイデオロギーを利用して単なる思い付きを確信へと変えるものでもある。感情に訴えかけ、良心が咎めるようにすることで、ノワリスト運動[訳註11]はハイチ人の主観性を腐敗させるという離れ業をやってのけたのであり、政治が関わる領域全体を黒人/ムラート[訳註12]の二項対立へと還元してしまった。そしてこの腐敗によって、この運動はそれを受け入れることを余儀なくさせ、暴力が伴おうとなかろうと、権力を握るようになったのである。ノワリスト運動は、中産階級の権力欲を始点として、この欲を操ることによって社会を腐敗させた。構想の腐敗、構想する力の腐敗、権力欲の操作による終わりの見えない精神の腐敗である。そしてハイチにおける良心の腐敗と共に、ノワリスト運動は超越的な変貌を遂げた。腐敗が、所有、知識、権力、行動に関するところだけにとどまらず、存在そのものに関わるようになるのである。(Péan 2007 : 164)

クレマン・シュメル、ルイ・デジョワ、ダニエル・フィニョレを始めとする他の大統領候補者たちは、共同の陣営を築く力がなかったことより、自分たちの知らぬ間に、デュヴァリエが絶対的権力を掌握するのを容易くさせてしまった。同時に、デュヴァリエはこの状況を利用して、1957年8月に行われた有名な演説のなかで、[次の引用に示されているような]ポピュリスト的論法を展開する。もっとも、[ハイチ・クレオール語を母語とする、]フランス語に熟達していない大多数の国民には届かなかったのであるが。

彼ら[ほかの候補者]は一番人気の候補者デュヴァリエを、まるで罰せられた子どものように外の闇へと追いやろうとしている。彼らは常軌を逸している。

百の裕福な家族の名のもとに、つましい人間の貧窮に伝統的に無関心で、この国の真の民衆のすがたをバルコニーから見下ろすことでしか知らない一握りの人々の名のもとに、そしてまともに判断力を持たないルンペン・プロレタリアートからはぐれた数百人の哀れな者たちの名のもとに、常軌を逸したあの連合は、私や貴方がたが発言することは認めないと決めてしまった。彼らは全てを私たちの代わりに決めてしまう。彼らは選挙をでっち上げている。彼らが私たちに指導者を与えることになってしまうのだ。(Péan 2007 : 168)

そこからはレトリックのようなテロリストのようなメカニズムが、まるで影芝居のようにうごめき始める。その一方で暴動や襲撃事件が激化した。たとえば1957年1月25日には下院議事堂が爆破され(『ル・ヌヴェリスト』1957年1月26日号)、年初にはペティオンヴィルの人気キャバレー、カバーヌ・シュクーヌも放火の被害にあっている。デュヴァリエの候補者演説が宛先として想定しているとされた大多数の人間は、外にある社会の闇の中でもがいている。まさにハイチでよく言われる表現、〈外に立たされた国ペイ・アン・ドール〉が示すところである。[しかし]本当の宛先は候補者の支持者や、自分たちが慢性的危機状態にある国を統治できていると考える軍事政権のメンバーだったのだ。彼らの機構は、軍部を含む複数の派閥の間で引き裂かれていた。実際のところ、関係者のほとんどは利権のために行動していたのである。『ル・ヌヴェリスト』紙は国じゅうを覆うこの混乱を、第一面をまるごと使って、〈無力感〉という形で表現している。たとえば5月25日号、27日号、28日号の第一面では「1957年5月25日土曜日、悲劇の日」と題して、ポルトープランスの街頭で起こった暴力事件を、その歴史的な性格を強調するようにして報じている。これはハイチ軍の異なる派閥同士の衝突であり、この事件の暫定的な結末として、ダニエル・フィニョレが臨時大統領に任命されることとなった。これを契機として、将官ケブローの指令により実行される、民間人殺傷事件が起こることとなる。ジャック・ステファン・アレクシがポルトープランスに到着したのは[そのような状況下にある]5月25日のことである。動乱はその後も続き、6月下旬にその極点がきたと言えるだろう。というのも、1957年6月16日、すでに失脚したフィニョレの支持者たちが追われ、その多くが殺害されたのである。

大量虐殺とまではいかなくとも、それは下町におけるシステマティックな殺人とでも呼ぶべき出来事であった。どれだけの人々が6月16日の晩課の時間に、ケブロー指揮下の部隊に殺されたのか。公式の発表ではその数五十人、しかしモールパ・オーギュストによれば五百人以上、ベルナール・ディドリッヒの資料に至っては千人に及ぶとしている。いずれにせよ、この夜まき散らされた死はアントニオ・Th.・ケブローという名を永遠に変えてしまうことになるだろう。「Th.」は元々〈トラシュビール〉を意味していたわけだが、この出来事により、数多くの命を刈り取ったあの機関銃の名前にちなんで〈トムソン〉を指すこととなるのだ。(Péan 2007 :  176)

〈カリブ海デジタルライブラリー〉で閲覧可能な1957年の『ル・ヌヴェリスト』紙には、この選挙戦の激しさや候補者の遊説の様子が示されている。特にデョジョワ、シュメル、デュヴァリエの演説は繰り返し掲載される。選挙戦に散りばめられた、深刻な結果を残す事件のこともたびたび取り上げられる。たとえば3月6日号の第一面は次の通りである。「昨日午後、ポルトープランスで深刻な事件発生。警察の機動により数多くのデモ参加者が負傷」。『ル・ヌヴェリスト』が伝える、デュヴァリエの演説に通底するトーンは庇護者のそれである。たとえば1957年3月18日に行われた首都の西に位置する町ジェレミーでの演説は、デュマルセ・エスティメへの賛辞と1946年の革命の総括に始まり、自身の望みを訴えている。

親愛なる同胞の皆へ

私は二十年以上もの間、いつの日か祖国の運命を導くという夢を抱いてきた。地方住みの医師[訳註13]として、二十年以上に亘って、都市の後背地がもつ物質的、道徳的な悲惨と常に接するという貴重な機会を得た。

だからこそ私自身の運命を、気骨あるエリートたちのそれに、深い苦しみのなかにある大衆のそれに結びつけると決めた。知的、政治的、道徳的な形成に寄与しうる精神的ファクターを時の流れのなかに探し求めると決めた。果たすべき使命を見据えて、自らの能力を高めると決めたのだ。

このような動機づけは飽きるほど繰り返される。そうしてフランソワ・デュヴァリエは厳格かつ効果的な選挙運動を展開していくのであった。

この頃、暴動が頻発していた。軍将校数名を死に至らしめた破事件により、臨時大統領フランク・シルヴァンが辞任に追い込まれ、その後の数週間、軍部により逮捕、投獄されている(1957年4月12日『ル・ヌヴェリスト』の報道)。4月6日には新たに政府の執行部が任命されるが、この組織も任務の遂行に苦しむこととなる。大統領選は6月16日に予定されていた。候補者同士の連帯を求める声も上がり始めていたが、デュヴァリエの存在感はもはや否定しようのないものになっていた。4月4日の自由投稿欄には、ハイチ軍医兼少佐のエルマン・レモンによる次のような論説が掲載されている。「[デュヴァリエの台頭が意味するところは]国家救済なのだ。どうしてデョワとフィニョレの連帯など必要か」。

同年9月22日、フランソワ・デュヴァリエ医師が、混乱の蔓延するなか、大統領に選出された。もっとも当人と彼の腹心たちにとっては混乱など起こっていなかった。彼が権力を握るのに力添えした人間が、自分が何に手を貸したかを思い知るのは、もはや手遅れとなってからのことだ。たとえば1957年5月8日の演説の原稿の大部分を書いた作家ロジェ・ドルサンヴィルがそうであったし、『証言 1946-1976年─裏切られた希望』という意味深な題の自著において多くのことを明らかにしている、プレソワール・ピエールも同様であった。もはや止めようのない仕掛けが作動しており、摩耗によってそれが弱体化するのはほぼ30年先のこととなる。M・セオネの指摘するように、デュヴァリエの前に組織だった政治的対抗勢力はもう存在していなかった。選挙で競った他の候補者たちは追われて逃亡し、労働組合も、ポピュリズムに対抗しうる共産党も消失していた。残っていたのはばらばらに分散した反対派だけで、しばらくの間、それはジャーナリストと作家の役割になるのだった。

1957年11月以降、『ル・ヌヴェリスト』紙が通常発行を再開したことが〈カリブ海デジタルライブラリー〉のサーバー上で確認できる。国内の危機はもう言及されなくなっている。たとえば11月11日号に載った次の文言のような、フランソワ・デュヴァリエから国民への呼びかけを発表するのに使われている。「この勝利に向かって前進しよう。禁欲と自己犠牲の名の下に」。目の肥えた観察者なら、この時役職の再配分が進んでいたことに気づくだろう。『ル・ヌヴェリスト』紙は新たな任命について発表する一方で、時には解任や、唐突な罷免に対する当事者の抗議も報道している。たとえば11月13日にはアルフレッド・ドルセが郵政管理者に就任したと報じられているが、同号ではたばこ公団の新たな主席会計官が任命されたことも報じられている。L・ペアンによると、この公団こそ、あの腐敗の主な資金源の一つであったという。会計監査院への圧力もこの11月中に連続して報道されている出来事のひとつである。11月29日には、大使の人事異動が報じられている。伝統的に、ハイチ政府はこのような任命によって、潜在的な対抗勢力を排除してきたのであった。こうしてフーシェ氏がワシントンに、プリス=マルス氏がパリに、先の大統領選の候補者であったオダン氏がメキシコに、サン=ロット氏がマドリードに派遣される。また、ハイチ政府は国際的な承認を受けるための試みを重ね、ドミニカ共和国との関係も急速に強化されていった。たとえば将官ケブローはドミニカ共和国の独裁者[訳註14]から勲章を受けたのだし、有効のメッセージや代表団の交流も行われたのであった。文化的な方面でも政府は一切手を抜かず、ソルボンヌ大学からの承認を獲得するほどであった。11月30日号では、米州機構の文化委員会のハイチ代表、フィリップ・カンタヴ教授が、ソルボンヌ大学長フランソワ・サライユに迎え入れられたと報じられている。サライユ学長も「新たなハイチ大統領が自国とその国民の福祉の向上のために尽力していることを忘れてはならない」と述べたそうである。

1957年12月になると、先の大統領候補であったデジョワとジュメルの運命が決定づけられたように見受けられる。12月6日第一面には、「L・デジョワおよびC・ジュメルの件に関して、内務大臣が重要な声明を発表」とある。同号では、制憲議会により議会が一院制へと縮小されたことも報じられている。そして12月14日、黒と赤のあの国旗[訳註15]が採択されるのだった。しかしながら身体の拘束については[紙面上で]ほとんど言及されていない。最初にそれが言及されるのは、12月23日号に掲載されたジャン・F・ブリエールによる「デュヴァリエ大統領への公開書簡」においてである。「親愛なる大統領であり、親しい友である方へ[…]かつて貴方が守っていたものを、今私に守らせてほしい。かつて貴方が立っていたその場所で、私に貴方の統治の手助けをさせてほしい。どうか言わせてほしい。牢獄で朽ち果てている人々がいる。国外へ追放された人々がいる」。

ブリエールは非常に直接的な形で、エチエンヌ・シャルリエや、ジャック・ルーマンの兄弟であるミシェル・ルーマンを始めとする、武闘派コミュニストが自由を奪われていることに触れている。さらには、当選したことの重大さを理解せず、なおも候補者であるかのように振舞う人物としてデュヴァリエの姿を描写する一方で、「この国は疲弊し、平和と、食糧と、雇用と、尊厳を渇望しているのだ」とも述べている。最後には、国外追放とは「もはや時代遅れの概念であり、それを正当化しうるのは奴隷制だけなのだ」との駄目押しがある。この件の関係者は左派グループ〈民主同盟〉のメンバーであり、デュヴァリエ政治の最初の標的となった人物たちである。L・ペアンによると、彼らは「モスクワ派のグループを作り、共産主義のプロパガンダを作成とし、アナキズムを流布している」と非難されていた。そうした活動は主に発禁処分を受けた政治機関誌『解放されたハイチ人ライシアン・リベレ』上で行われていた(Péan 2007 : 371)。

12月25日の『ル・ヌヴェリスト』紙では彼らが釈放されたと報じられている。その一方で、12月初頭からほぼ毎日のように、不遇の子どもたちのために尽力するデュヴァリエ夫人の活動を称える記事が掲載されている。

 

6. 1957年の国際社会

1957年は世界的にも大きな出来事が続いた年であり、その影響はハイチでも如実に現われていた。それは1月時点の『ル・ヌヴェリスト』紙でも取り上げられている。たとえばハンガリー動乱の終結と裁判、そして処刑、スエズ危機、ポーランドでヴワディスワフ・ゴムウカが1954年に名誉回復して以来、初めて政界に復帰したことに表れる、脱スターリン化の影響などの報道が見受けられる。また、『ル・ヌヴェリスト』紙ではアルジェリア危機の進展も注視されている。ただしその視線はフランス政府の見解を踏襲したものである。1957年1月19日号見出しは「ギ・モレによるアルジェリア問題についての重要声明」となっている。2月21日には、大戦後、国外のニュースは最終面に追いやられていたにもかかわらず、次のような記事が第一面に掲載されている。「国連は、イスラエルに対してエジプトからの軍撤退を強制するほかないとアイゼンハウアーが発表」。2月18日の第一面にはやはり隣国キューバに関する記事が掲載されている。「バティスタ政権の打倒を狙うキューバの革命家たちの計画」。同月26日には、「フィデル・カストロはいまだ生存しており、シエラ・マエストラ山中で交戦中」とある。3月2日の最終面では「カストロ勢力に危機か」と報じられると共に、スエズ危機とアイゼンハワー・プランに関する囲み記事が載っている。キューバの緊張状態は継続的に報じられている。たとえば3月14日号には「ハバナにて若者らが蜂起。国立宮殿および国会議事堂を襲撃し、40名が死亡」とある。同号最終面では、バティスタ大統領の辞任を求める呼びかけが掲載されている。3月15日号には「〈動乱〉鎮圧後、ハバナに平穏戻る」とあり、蜂起の勢いは失われたものとして報じられている。この記事は同時に、カリブ海地域における独裁者とその体制の告発文ともなっている。しかし3月26日号にあるのは、キューバでの殺戮に対するハイチの学生の反応である。「ハイチ人大学生青年会、そしてキューバ人学生の犠牲」。

『ル・ヌヴェリスト』紙でさかんに取り上げられる出来事のなかには、被植民地国の独立も含まれている。ガーナやタンガニーカの独立が称えられ、大使マックス・ドルサンヴィルの国連での働きもこの流れに沿って報じられている。

しかし1957年4月になると、次第に紙面はハイチ国内の情報で埋めつくされるようになる。国際ニュースは徐々に、最終面からさえも姿を消していく。深刻な危機の最中にありながら、カジノ・アンテルナシオナルで毎夜ショーを披露する歌手カルメン・トレスの肖像が掲載されているのは、まったく場違いのように見える。ペティオンヴィルのブルジョワ階級のたまり場、カバーヌ・シュシュンヌが放火されたと報道されている。定期的にこの地域で巡業していたゴスラン劇団が、一週間の公演の後、早々に立ち去っている。

1957年11月以降の『ル・ヌヴェリスト』紙では国際政治のニュースが再び取り上げられるようになる。アルジェリア戦争、冷戦下での米ソの宇宙開発競争、カメルーンの独立、キューバ革命などの報道である。12月27日には『ニューヨークタイムズ』の記事が転載され、「ニカラグア大統領ソモサ、キューバへの侵攻計画を告白。中米における共産主義活動の拡大について語る」と報じられている。しかしポルトープランスの状況にはどこか奇妙なところが感じられる。1957年末、マックス・ドルサンヴィルが国連の任務の合間に二週間ほどハイチに滞在したが、再出国の際に次のような不穏なコメントを残している。

私はデルマ、ボワ・パタット、モン・エルキュールを始めとする地区で、豪華な建物が並みいるように建設されていくなか、首都の思い出を持ち帰った。このとき、人々の表情には硬直が見られ、ある者の顔には傲慢さが、ある者にはある種の気まずさ、違和感がうかがえた。(Péan 2007 : 484)

1957年12月の『ル・ヌヴェリスト』紙第一面には、数日前の『ラ・ファランジュ』誌の記事評が掲載されている。そこにおいて神父サルガドにより、教会の描写にみられるその諷刺的性格を批判されているのがジャック・ステファン・アレクシの『音楽家たる樹々』である。神父はとりわけ「ヴォドゥの称揚」と、アレクシが「祖国の魂」と呼ぶものについての彼の一面的な捉え方に異議を唱えている。こうしてアンディジェニスト[訳註16]の擁護として読まれるものへの線引きがなされることにより、そこにある心理的な地理の輪郭を読み取ることができるようになっている。

 

7. 論争の始まり

論争の端緒は1958年1月31日から2月3日号の『ル・ヌヴェリスト』に掲載された、「デュドネ・セドール、民衆の画家」と題されたアレクシの講演原稿にある。これはハイチ絵画をシュルレアリスムへ還元することに対する批判であり、1956年1月に『ハイチの鏡像ルフレ・ダイチ』誌第14-16号で発表された「親愛なる画家たちへの手紙」の延長線上にある。アレクシはエクトール・イポリットとセドールを対比して、前者は人気の画家ではあっても民衆の画家ではないとしている。この対比を出発点としてアレクシは、とりわけシュルレアリスム運動に対する清算を行おうとするのである。[アレクシ曰く]イポリットは1947年のシュルレアリスム展という、ブルジョワの退廃を象徴するきわめて意味深い契機に回収され得た。それには次の三つの理由がある。第一に、シュルレアリスムは様々な詩学の境界を曖昧にする。第二に、これにはサディスムへの称揚が必要であり、このことはとりわけアルチンボルド、グラック、マッタ、タンギー、マン・レイ、マックス・エルンストなどの作品に表れている。第三に、展覧会の来場者もきわめて雑多であった。「上流階級のこの一大イベントで提供されたご馳走については不問にするとして、そこにはハイソなパリ人と闇市の連中がひしめき合っていたのだ」。

それに対して、セドールは曲解されることがない。先見的なこの画家は、民衆の運命と深く結ばれ、その存在を共にしている。彼の絵は騙し絵的な表現に頼らない。立体感を出すために絵の具を厚塗りすることはなく、空間は平面的で、遠近法に紛れて物体の量感を消してしまうこともない。このような要素によって、表象のレアリスムと、ハイチの民の驚異的レアリスムレアリスム・メルヴェイユを通じて、セドールは正にハイチ的で、回収することのできない画家となっている。たとえ民衆の生活がほとんど、あるいはまったく描かれていなかったとしても、このことは変わらない。さらに、完成されたキャンバスからは、用いられた技法や制作過程が一切うかがえないようになっている。

1958年2月5日、すなわち前述のアレクシ論考最終回が掲載された翌々日、ジャーナリストのダニエル・ゲーが二本の記事を発表している。一方ではポルトープランス市長ウィンゾール・ラフェリエールに向けて首都の文化団体への支援を要請しており、もう一方では、ピエール・ヴィアラ[6]に向けて、ハイチのアンスティテュ・フランセでの講演会のなかで扱われる作品に、ハイチ国内で生まれたテクストを含めてほしいと頼んでいる。

2月11日の『ル・ヌヴェリスト』紙には、フランソワ・デュヴァリエがハイチ人民党幹部の前で行った演説が掲載された。不穏な気配をもつこの演説では、1946年の革命的運動を自らのものとして主張し、露骨な形で、全体主義的な社会変革の意思が表明されている。

政府は、旧式で時代遅れで、その変革がすでに始まっている社会制度に代えて、社会的、経済的に内容の詰まった平等を実現するために、人間の尺度にかなった新たな社会を段階的に導入しつつある。これは歴史上行われてきた論理的な歩みであると同時に、中産階級と大衆とが、自らの運命を背負い、解放の意思のもとに武装するなかでみられた歩み、共通の努力によって万人の存在に色彩を与えること、その意味を広げ、人間に幸福への鍵をもたらされて以来とられてきた歩みだ。

もはやこの政権の性格について疑いの余地はなく、人々の精神を確実に掌握しつつあることが見てとれる。政治的な闘争は、とりわけデュヴァリエに関するところでは、文化や言語の領域でのそれと切り離して考えることはできないだろう。また、同号には「議会の活動」と題された記事も掲載されており、セラファン氏の議員活動に関する記者の所感が述べられている。とりわけ彼のたばこ公団の管理や、キューバからの400万ドルの借款、さらには悪意ある官僚による不正が起こった可能性に関するところでのこの議員の不正行為が注目されている。これに対して、財務を担当する国務長官は、曖昧な答弁しかしていない。このセラファン議員については[本稿でも]後ほど再び言及する。

紙面上ではこの時点で、二人の作家の対立は公然のものとなっている。それまでドゥペストルとアレクシは互いへの連絡を完全に断っていたわけではないと考えられるが、同時に、アレクシによる『ハイチの民の驚異的レアリスムレアリスム・メルヴェイユへの緒言』がドゥペストルの「セゼールへの返答」への応答となっていることも見て取れるのである。ここに、論争が始まる。というのも、ドゥペストルがすでに数か月前から『プレザンス・アフリケーヌ』にみられるセゼール的な路線に復帰していたのに対し、アレクシはアンチ・シュルレアリスムの立場と、ネグリチュードの展望に対して敵対する姿勢を堅持していたのである。

 

8. アフリカ文化協会(SAC)に立ち戻る

アレクシが論争の火蓋を切ったのは、1958年2月26日の「SAC第一回会合について」という記事においてである。この協会には起こりうるアクションを無力化しようとする働きがあるという批判を向けたのであった。まずは二人の作家を繋ぐ友情について「ルネ・ドゥペストルという長年の、14年来の友人、ずっと前から兄弟も同然の存在」と強調されているが、その後現況について判断を下してほしいとの読者への呼びかけがある。アレクシは1958年2月21日付けの、SACの第一回会合について報じた「とある会合をめぐって」という記事に遡る。そこではアレクシとドゥペストルの間で激しい口論があったことが伝えられていたのであった。アレクシがSACの国際執行委員会のメンバーである自身が地元委員会から外されたことへの驚きを示す一方で、ドゥペストルは「設立された委員会はあくまで暫定的な設立委員会であって、今後定款が定まった上で正式な委員会に置き換わる予定であった」と返答したそうである。この2月21日の記事はドゥペストルの返答にあった口調の激しさについてのコメントで締めくくられている。「若き詩人ルネ・ドゥペストルは小説家ジャック・S・アレクシに対して、人道主義的な物言いと、利己的で芝居がかった言動の間にある乖離を指摘したアムルーシュの言葉を、あろうことかそのまま適用した」。

この記事末尾のすぐ隣、ページ下部には、全く関係のない、ソ連に関する記事が載っている。1937年の大粛清時に死刑宣告を受け、同年6月12日にトハチェフスキーと共に《パージ》に遭い、銃殺刑に処された将官ヴィタリ・プリマコフの名誉回復に関する記事である。紙面上でのこの、恐らく一握りの目ざとい読者だけが気づくであろうこの鉢合わせには、客観的偶然とでもいうべき意味合いがある。それというのも赤軍のコサック騎兵隊創設者であったプリマコフは、エルザ・トリオレの姉リリ・ブリクの夫であり、アラゴンの義兄にあたる人物だったのである。これはアレクシとドゥペストルという武闘派の作家の対立においても問題となっている、とある歴史の彷徨であるとも言える。[そこで暗に投げかけられているのは]スターリン主義にとっての恥辱は、マルクス主義の思想と、共産主義社会の実現のための闘争において、どのように受け止められるだろうか[という問いである]。

1958年2月26日の記事の中で、アレクシの口調は徐々に激しくなり、それまでの二人の会話のなかで、ドゥペストルがSAC第一回大会について一切触れていなかったことが非難されている。議論は法的な方面に向けられていく。[アレクシによると、]大会収集通知の内容に反して、SACにはすでに定款がある。また、委員会メンバーの選出方法も民主的なルールに則っていない。ドゥペストルが民族学者を優遇したのである。しかしドゥペストル自身も操られていた。長年ハイチを離れていたドゥペストルは、もはやハイチの政治家たちの駆け引きには通じていない。加えて、彼の「詩人としての単純さ、怒りっぽさ、不安定さ」が公の場での意思決定や発言に影響を及ぼしているのだ。ドゥペストルは1956年のソルボンヌ会議に使節団が送られた際に露呈した、現行の委員会メンバーたちの低俗さを知らない…本来アムルーシュの言葉を適用されるべきは彼らである。この委員会らしきものは、たとえばフーシェ、バスティアン、ウィルソン・ビゴー、レオン・ラロ、ジャン・F・ブリエールといった真なる有識者や芸術家を排除してしまったのだ[と語られている]。最後にアレクシは、自身がSACハイチ支部の設立に時間を要したことについて、委員会を合法化するためにハイチ当局と連絡をつけることがかなわなかったためだと理由付けしている。「私は、内閣に訴えて集会の許可を得られるようにする〈開けゴマ〉のようなものを持ち合わせていない。厳しく課せられた例外規定により、公的な団体以外を除いて一切の集会が禁じられている状況下ではかなわない」。そして文章を締めくくるのは、数週間前には否定していたにも関わらず、評判の芳しくないハイチの要人たちの集合体に加わろうとしているというドゥペストルの〈二枚舌〉を糾弾する次の内容である。

この件に関して騒ぎ立てている人間に慎みと、[アムルーシュの]あの言葉を理解するほんの少しの分別があったなら、顔を覆ったことだろう。彼らは人道主義的な言葉を並べながら、あらゆる政府に使えてきた人間、諂い、奉仕し、密告することでバターの皿の恩恵に授かろうとしている人間、真の文化をもたざる人間、すなわち自らの肉体と血を差し出すような文化的献身を欠いたまま、とある後進国で虚飾を並べ立て、それを文化だと主張するような人間なのだ。

アレクシはこれをもって宣戦布告している[といえよう]。しかしそれは一方的な言動ではない。前提として、新聞上での論争の争点は、相手の最新の発表に対する反駁や反応として書かれた一連のエピソードであるようにみえることは理解しておくべきであろう。しかし同時に、この論争の妙点はまず、相手の反撃が予想されていたこと、それ以上にその反撃を見越して準備されていたことにある。明らかにこの論争は公に出た最初の応酬よりもずっと前に始まっていたのであり、だからこそドゥペストルの〈二枚舌〉に対するアレクシの非難が出たのである。しかしこの記事に備わっているのはそれだけでなく、より深刻な告発が見受けられる。アレクシの糾弾の対象となっているのは、デュヴァリエに奉仕する知識階級全体なのである。後にアレクシが用いることになる言い分の萌芽がこのテクストには見てとれる。そこに現れているのはこの論争の根本にある文学的な性格であり、そのために時に奇妙で、時に驚きをもたらすテクストが生まれているのだが、それを書いたのは、始めは闘争の士として姿を現わし、兄弟愛のようであり兄弟殺しでもあるかのような闘いの場面を演出する二人の作家なのである。しかし同時に、そして手遅れになってから彼らが気づくように、この争いはハイチの知識人がそれを築こうともがいてきた政治という概念そのものを取り返しのつかないところまで損なってしまうものであった。それは、フィルマン、ジャンヴィエ、デュマルセヴァル・ドゥロルム、そしてルーマンがその構築に身を捧げてきた概念である。だがこの論争はやがて単なる乱闘に堕してしまうのであった。

 

9. ドゥペストル最初のカウンター

ドゥペストルは即座に反応した。彼もまたひどく感情を害したのだろう。1958年3月5日付の『ル・ヌヴェリスト』紙の第一面には「知識人の血痕」との見出しがある。題にうかがえる曖昧さは記事の書き手の感情を表していると考えられる。記事の分量は非常に多く、第一面から最終面にかけておよそ八段に亘って続いている。さらに3月7日、8日にも続報が掲載されている。ドゥペストルが提示したのはまさに告発のエッセイであった。

この文章はアレクシの〈三文芝居〉への非難から始まる。そしてSAC設立時の状況に言及し、アレクシはパリでの準備会合に一切参加しなかったのであるし、執行委員会への任命も名誉上のものに過ぎないのだと続く。これにより、新聞読者の耳にはそれまで関係者によって語られてきたものとは様相の異なる物語が入ってくることになる。また、アレクシがセゼールと『プレザンス・アフリケーヌ』に対して、政治と思想の面で距離を置いたことにも同一の方向性がうかがえるという。ドゥペストルはSACの創設を、バンドン会議で開かれた新たな見方のなかに位置づけ直している。

バンドン会議は人権宣言に新たな中身を与えたのだ。それまで人権宣言とは、実際には、白人で、ブルジョワで、西洋的な人間の権利の宣言に過ぎず、暴力と策略によって途上国の運命を意のままにする権利の表明であった。バンドン会議は西洋世界に対し、共存と、自由に思考と存在のあり方をぶつけ合うことの、打ち消しようのない必要性を突き付けたのである。

この転換の流れのなかで、バンドン会議での決定は白人にとって本性にもとるものであるとドゥペストルは言う。そしてすぐさま、アレクシはこの展望の転換を理解することをわざと拒んだのだと非難している。さらに悪いことに、彼は自分の先の大統領選で支持した候補者ルイ・デョワのうちに、肌の色に関する偏見が根強く残っていたことに十分な注意を払わなかったとする。徐々にドゥペストルはアレクシの〈日和見主義〉の非難へと筆を進め、政治に関わる彼の思考は貧弱であると責め立てる。さらには彼がデョジョワの大統領選演説の原稿を作成した可能性さえ示唆されている。その文体が証拠であり、『プレザンス・アフリケーヌ』で彼の小説作品を批評したことのある文芸評論家であれば誰にでも、それがアレクシによるものだと分かるというのである。さらにドゥペストルは、SAC創設までの経緯を正当化しつつ、政治理論の講義とも言える論を展開している。SACはハイチのあらゆる知識人に開かれるべきであるという。また、アリウン・ジョップへ訴えかけながら、アレクシは自身の報告する義務を放棄したのだとも述べられる。要するにアレクシは虚言癖に冒されているのだというのである。

1958年3月6日、ドゥペストルは再度報告の義務に言及している。[ドゥペストルによると、]アレクシはドゥペストルが自身の報告の中で行った提案に耳を貸さなかったばかりか、SAC創設時の構成員の操作と限定に関しては、まったくのでっち上げをしている。アレクシこそ、自身がもつ排他性によって操られ、無責任に振舞っている。[3月]7日号ではさらに語気を強めてアレクシの日和見主義を非難している。[ドゥペストルによると、]アレクシがデジョワを支持したのは、マグロワ政権下のハイチで暮らしたのは、自らに妥協したに過ぎず、自身の父が大使であった頃には国家の恩恵も受けていた。アレクシが理論的な裏付けとしているものは現実を前にして崩れ去る。「何かを組織しようという精神が貴方に欠けていることは、祖国の具体的な状況に見出される国家的な何かを分析する能力が欠如していることをそのまま反映しているのだ」。さらに、〈二枚舌〉はアレクシの第二の本性であるともいう。「つまり貴方は、貴方自身がした妥協に目をつぶってもらいたいがために、私が権力者と卑屈な妥協案を結ぶことも〈理解できる〉というわけだ」。

3月8日、ドゥペストルはその筆致を告発から風刺へと変え、アレクシの〈三文芝居〉をさらに滑稽に強調する。「実のところ、諸君、アレクシらしさの極致アレクシッシムというのは、三文芝居という滑稽な地獄に未来永劫落ちたのだ。彼を見るとプラトンのいうゴルギアスを思い出す。はったりと虚栄の医師博士、華麗な道化の大家、言葉遊びの名人だ」。アレクシは作家のパロディへと身を落とし、その態度はセリーヌやドリュー、モンテルランのような対独協力作家の姿を思わせる。アレクシとはひとつの詐称/態度(アン)ポスチュールあり、演出なのである。「我うわべをつくろう、故に我あり」。ナルシシズムに満ち、ほらを吹き、虚言癖をもつ、それがジャック・ステファン・アレクシなのだ。

このように激情をさらけ出しつつ、ドゥペストルは両者の友情の終わりを宣言する。締めはセゼールの引用である。「そして何より私の身体も魂も、ただの観客であるかのような、不毛な姿勢で、腕を組んでいるだけにならないようにしてほしい。人生は見世物ではないのだから。苦悩の海は額縁舞台プロセニウムではないのだから。叫ぶ人間は、踊る熊などではないのだから…」。

最終的な末尾は呪詛のような言葉で締めくくられている。唯一読み書きのできない民衆だけがその涜職から解放してやれるという類の呪詛である。「イデオロギーがあるかのような身振りを鏡の前でとることに甘んじるものに災いあれ。大衆はその鏡を打ち砕くだろう。もしもそこに、厳しくも希望に燃える表情を見出すことができないのならば」。

この記事により、この種のテクストによく見られる苛烈さと大仰さすらも越えてしまったところで、ドゥペストルはある暗黙の慣習を破壊してしまった。その糾弾は政治の、イデオロギーの領域からはみ出し、人格否定に転じて、徐々にあきれるほど暴力的になり、公衆の目には品位を欠いたものとして映るのである。攻撃性の高まりに歯止めがかからぬまま、相手を貶めようとする憎悪へと変質してしまった対立が激化していく。もはや恫喝こそがこの論争における唯一の言葉遣いとなってしまうのだった。

 

10. アレクシによるドゥペストルの告発

1958年3月10日、ドゥペストルは国立舞台芸術協会にて講演しているが、その内容は先日までの記事を延長するかのようであったそうだ。「知識人にこそ、文化に関わる国民的特質を守る責任がある」とドゥペストルは述べたようである。つまりは民衆を前にした知識人の責任が問われたのである。この講演を報じた記者によると、ドゥペストルは幸福の問題にこだわっていたという。そう、フランス革命でも政治的行動の核心に据えられた問題である。人間の解放のためには闘わなければならない。文化的コロニアリズムに抗って伝統の価値を見出さねばならない。そしてその抵抗のためにはあらゆる社会的勢力と連帯する必要がある。「私はデョジョワ支持者か、ジュメル支持者か、フィニョレ支持者か、デュヴァリエ支持者であるかにかかわらず、すべての若き知識人および文化人に対して、より鋭く責任を意識するよう訴えたい」。この発言をもってドゥペストルは、統一戦線の結成を宣言したのである。

[その後]記者による幕間を経て、日刊紙に論客たちの発言が戻ってくる。

アレクシは1958年3月11日から17日にかけて、「SACに差し入れられた手」と題された記事を通じて応答している。ドゥペストルが自分の記事をロートレアモンの引用から始めていたのに対して、アレクシはジャン・マルスナック[7]が彼のSACへの貢献を称えた記事の一節を掲げることから始めている。[その内容は以下のようなものである。]ドゥペストルは権威主義的である。というのも、反論に耳を貸さず、「誰に対しても専制をふるう権利が自分にあると思い込んでおり、明らかに、自分のすること言うことすべて認められるべきであり、そうでなくとも称賛されて当然と考えている」のである。SAC執行部の構成についても実際には相当選別されたものである。政府関係者に近い民族学者が名を連ねており、この集団の独立性は担保されていない。ドゥペストルは不誠実である。発言の順について虚偽を述べ、危機を民主的に解決しようという提案を無視して、アレクシに関する記述にも嘘があり、議論の場で見せた誠実さや礼儀を汲み取ることもなく、新聞上ではアレクシを不正直な人物であると非難する。ドゥペストルはさらに知的なごまかしに従属している。『マルドロールの歌』とその生みの親ロートレアモン、つまりは病んだ詩人を参照軸としているのだから。ドゥペストルの論法はメルロ=ポンティのそれになぞらえることができる。「反応するだけの根っからのイデオローグ」であり、「問題を巧みに端折り、論争を核心から外れたところに誘導し、扇動的で浅はかなはぐらかしにつなげる」論法の達人なのだ。

3月12日、アレクシは論争の前線をイデオロギーのレベルへと移して、一連の事実関係を整理することから始めている。まずは1955年4月に『ハイチの鏡像ルフレ・ダイチ』誌に掲載された自身の記事にて、ソルボンヌでの〈会議〉の準備に参加するよう『プレザンス・アフリケーヌ』から直々に要請を受けたと報告したことに言及している。[アレクシによると、]当時の彼は芸術家たちに〈会議〉への参加を呼びかけながら、ピキオン、アルティ、モリソー=ルロワと活動を共にしていたが、ハイチのマグロワ政権直轄の警察による監視を受けており、さらには民族学者たちからの敵意にも直面していた。ここに付け加えるとしたら、アレクシが明らかなモーラス主義[訳註17]をプリス=マルスから嗅ぎとり、彼やその周りに結集したアンディジェニスムの民族学者と長らく距離をとっていたことは間違いない[8]。[アレクシの見立てでは、]ドゥペストルはアレクシと、彼の小説への反響に嫉妬している。ドゥペストルは二回に亘って誤った。ひとつはSACの初回大会の日程決めの際のことで、アレクシがそこに出席できなかったのだとして、それはアリウン・ジョップが公務で不在だったためであるということ。もうひとつはより深刻で、ハンガリー動乱の時期に、ドゥペストルは反ソ的ともとれる批判的立場を持ち込もうとしたということである。

1958年3月13日号にてアレクシは、ドゥペストルに本当の意味での分析能力に支えられた政治学の素養が備わっていないと指摘している。アレクシにとって科学的論理と詩学的夢想は本質的に対立するものであるのだが、この二つの混同こそがドゥペストルを独断的にしているという。「よく知りもしない問題について語りながら、独断的でまったく思い上がった態度をとる。これは無知であることの明白な証であり、自分は絶対に間違えないなんてことはないのだと証明された途端に彼は我を忘れてしまうし、最も陳腐な修正主義に堕してしまう」。

しかし最大の問題はそこではないという。ドゥペストルはバカロレアを取得しておらず、デュマルセ・エスティメ元大統領の寛大さによって大学に入学できた。また、ドゥペストルは近頃デュヴァリエの招待を受けて大統領官邸での晩餐に応じたが、その件について説明しようとしないというのである。

そのことについて私が尋ねたとき、自分の名誉を傷つけようとする「敵」に向けられるような激怒が返ってきた。それはデュヴァリエ支持者たちとの結びつきに由来するものだった。あれほどお粗末な説明では、歴史的な対談のなかで交わされたかもしれない約束事も何なのか分からない。それでも私はルネ・ドゥペストルに政治的なレッテルを貼ろうとはしなかった。女性が強姦され、家が破壊され、近ごろ起こっている殺戮を生き延びた市民が終わりの見えない恐怖にさらされるこの混乱の時代において、彼がどのような行動に出るか見定めようとしたのだ[9]

この対談こそアレクシがデジョワを支持していることに対するドゥペストルの攻撃の発端であったのかもしれない。[アレクシによると、]彼を支持することを非難するのは、ドゥペストルに政治的感覚が欠如していることを如実に表している。というのも、当時も今も譲歩が欠かせない状況にあり、何より重要なのは外国への依存を終わらせ、真の民主主義を築き上げることなのである。農業の発展を促し、余剰資本を産業化へ回し、労働者階級の地位を高め、国内ブルジョワ階級の安全を保障し、国家共同体の構成員すべてを尊重することが求められている。

1958年3月14日号では、再びドゥペストルにみられる政治的感覚の欠如が言及されている。[アレクシによると、]ドゥペストルは、アレクシが『音楽家たる樹々』において、ポルトープランスの利己的なブルジョワがいかに戦争から利益を得たか、レスコー政権が〈肌の色至上主義〉の罠にどれだけはまったか、あれだけ描いているのに理解していない。ドゥペストルは「世界の中心にいる自分に酔いしれて偽造家となった人物」であり、政治的行動にはレアリスムが見出されるべきであろうという要請を捉えられていない。単なる左翼であり、軽薄さゆえに修正主義の主張に加担し、そのため政治で失敗を犯している。〈肌の色主義〉の罠にはまり、大きな国民統一戦線の構築の妨げにすらなっている。今求められているのは政治を〈ハイチ化〉し、労働者の権利保護を見据えて、大きく間口の広い組織の形成を促進させる、民衆の合意にもとづく一大政党の創設することなのである。

3月15日、アレクシはハイチにおける社会闘争についての教訓をさらに展開している。肌の色に基づく分析を止め社会階級の観点からマルクス主義にもとづく分析が必要であるとアレクシは言う。

ルネ・ドゥペストルのような進歩主義的で詩情に酔いしれた者だけが、この国には1804年と同様の階級構造が残っており、肌の色の問題に左右されていると信じ込むことができる。私は不平不満に満ちたこの小ブルジョワたちに知らしめようと思う。ハイチの歴史とはまさしく階級闘争の歴史であるということを。それというのも我が国の議会はそれがどのような政体であれ今なお封建的地主階級に牛耳られており、まさしく彼らこそ、反封建的で産業の90%を農業に依存する我が国の実際の支配階級を形成しているのである。封建体制のもとで商業資本が蓄積していくなか、彼ら封建的地主階級は、自らに対抗する新たな階級が誕生するのを目の当たりにしたのである。

[アレクシは]いわゆる中流階級は未だ封建的な土地所有者の客観的支持勢力となっているという。最貧困層からみれば状況は明らかに悲惨である。

毎年およそ10万もの失業プロレタリアートが農村を捨てて雇用市場に現われ、労働力を搾取する力をもつブルジョワを探し求めている。大都市郊外では約50万のルンペン・プロレタリアートが定職につけず飢えに苦しみ、市場でちょっとした仕事をしたり、「インディゴ刀」を手に歩き回って、高台の屋敷の庭で草刈りをさせてくれと頼んだりしている。毎日何十人ものプロレタリアートが生理的な貧困によって命を落としているわけだが、[彼らは]自らの労働力を売ることもできずにいるのだ。

アレクシは官僚やこれまでの政府に主観を持ち込まず奉仕するために肌の色主義の論法を利用してきた者たちを糾弾している。とりわけ名指しされるのが、アレクシを〈日和見主義者〉に仕立て上げようとしている[らしい]プリス=マルスである。そしてこう結ぶのである。「貴方の頭がそこまで空っぽだったとは、思いもしませんでしたよ、ルネ・ドゥペストル」。

3月17日号でもアレクシは同じ調子でドゥペストルの人格に言及している。再度嫉妬の話を持ち出すが、それはすでに自分の小説への自評に賞賛が詰まっていることに見て取れるという。[アレクシによると、]ドゥペストルにはどうしようもない欠点がある。「それは私のせいではない。いくらデュマルセ・エスティメにバカロレアを与えられようと、貴方は定職を得るための勉学を続けることができなかった。知識人としてこれは拭い難い汚点である」。

アレクシは自分があらゆる外交職や奨学金を断ったことも強調する。同時に大使であった自分の父の秘書という職務を引き受け、責任をもって務め上げたのだとも主張している。

また、[アレクシによると、]ドゥペストルの不安定さは悲惨な帰結をもたらした。国民詩をめぐる論争において、ドゥペストルはまずアラゴンの主張に同調し、その後セゼールの介入を受けてネグリチュード運動に復帰した。さらには恥知らずにも、恩人デュマルセ・エスティメを攻撃するに至った。アレクシは自身の作品がフランスで、とりわけ共産主義の批評家の間で高く評価され、たとえばセゼールのものよりもさらに急進的であるとの評価を受けたことにも言及している。[ドゥペストルへの評価の例として、]批評家アンドレ・ヴルムセル[10]の言葉を引用している。

同日号の第一面には〈国立芸術振興協会〉会合におけるアレクシの発言を報じる記者ジョスターによるリポートがある。見出しは「国民文化のための知識人の役割」となっている。この会はまず次の訴えから始まったという。資金不足のため振興協会は施設費用の支払いができなくなり、閉鎖の危機に瀕している。登壇者F・ルルブールが「文化はドルの奴隷であるなどと言わせてはならない」と述べた。アレクシの発言は文化なるものの定義づけから始まった。「[文化とは]人間が過去、現在、未来のことを考え知識を編成しようとする性向から生まれる産物なのだ」。知識人には国民文化のために闘う責務がある。問題はまずハイチの国民文化とは何かを明確にすることである。真に国民的な文学の文化が現れたのは19世紀末、あるいは米国による占領時であると彼は言った。そしてアンディジェン[11]のグループの活動を再評価している。

今後は作家が現実の問題を提起するようになるだろう。だが支配階級の文化と被支配階級のそれを混同してはならない。この二重性は今なお作家の生活の特徴になっている。最大の努力をもって人々の文盲を解決していかねばならない。それこそがこの国の現況において唯一価値のある闘争である。

アレクシの発言はニコラス・ギジェンの引用で締めくくられた[そうである]。「文化とは[…]つねに民衆に属すものであり、だからこそ民衆によって作られるべきなのだ」。そこに具体的にアクセスできるようでなければならない」。

 

11. 尊厳の侵害

1958年3月18日第一面の自由投稿欄にて、ドゥペストルは「仮面を剥がされた黒人」と題された記事を発表している。この見出しは論敵アレクシの父親の小説の題をもじったものである[12]。侮辱的で、問題含みで、偏見含みの見出しだと言える。記事の内容は非常に攻撃的で、極端にネガティブで、罵倒ととれる形でアレクシを形容している。[アレクシは]「大言壮語将軍」「虚言癖持ち」「できそこないの三流論客」「ご乱心の横柄ボンボン息子」。ドゥペストルはデョジョワ演説の草稿をアレクシ自身から渡された書類の中に見つけ、それを使ってアレクシを攻撃している。同時に、巧みにアイロニーを用いて、クレオール語の童歌を用いて、統一戦線の確立に必要な条件について政治的な講釈を与えている。さらには政治に関するところでのアレクシのプチ・ブル的日和見主義を糾弾し、民衆からの敬愛も、距離を置いた控えめなものに過ぎないとしている。アレクシが論争のなかで使った言葉を、暗に、自分は命への脅しとして捉えたのだという。末尾にはニコラ・ヴァプツァロフ[13]最後の詩が引用されている。

闘争は鎮めようがなく残酷だ。

闘争は、いうなれば、叙事詩なのだ。

私は倒れた。誰かが私の代わりとなる、ただそれだけのこと。

個人の運命などどうして構う必要があろう?

一斉射撃、その後は─蛆。

これらのことすべてがあまりに単純で、あまりに論理的である。

だが嵐のなかにあっても私はいつだってお前のそばにいる。

ああわが民衆よ、だって私はおまえを愛したのだから!

このような引用は2019年現在よりも1958年のほうがはるかに大きな反響を呼んだものだが、要はヴァプツァロフを銃殺したファシストたちにアレクシをなぞらえているのだ。

 

12. 危機の極点と終息

これほど怒涛のごとく並べられた非難と憎悪の言葉に、それ以上何かを言うことはできないだろう。1958年3月22日、アレクシがこの決闘に終止符を打つ。記事の見出しは「戦争にでも行ってしまえ、潰走のなかで…」であり、ドゥペストルがやってみせた、アレクシの父親の小説のタイトルをもじった低俗な言葉遊びへの非難から始まっている。誰が誰の仮面を剥いだって?ルネ・ドゥペストルは「小ブルジョワのムラート」でしかなく、「〈ネグリチュード〉なる科学的ナンセンスに改宗した」としても何も不思議ではない[と語られている]。アレクシはドゥペストルが糾弾に使った、SACの件、デジョワを支持したことをめぐる不誠実さなど、あらゆる論点を掘り返し、糾弾し返す。罵倒には罵倒で応じるのであった。[ドゥペストルは]「嘘つき」「できそこないの偽造家」「できそこないの批評家」「恩ある者に噛みついた裏切り者」。そして寛容そうでありながらも激昂したような調子で、ある要求を突きつけている。

私は全力で信じている。愛と兄弟愛こそが進歩の根本的な法則であり、いかなる幻滅によっても私たちが挫けるべきではないと。私はルネ・ドゥペストルに悪意を抱いているわけではなく、ただ彼が心の片隅で真に人間的な高みにのぼる力を取り戻してくれることを願っているのだ。だがどうか、これ以上私に構わず、私に仕事をさせてくれることを願うばかりだ。

この弁論においてアレクシは、ドゥペストルから受けた非難の一つ一つを取り上げている。そして最後には、パルティアン・ショットとでも言うべき告発をぶち込む。ドゥペストルはハイチに帰還するために多額の資金を受け取っていたというのである。ハイチの生活水準に照らしてみれば明らかに過剰であり、「社会福祉の非会計予算」から支出されたものであったという。つまりは本来貧困層のために使われるべき資金がそれとは異なる目的で流用されたことになる。

 

13. いくつかの同時代的反響

息切れを迎えた論争の観察はここで終えてもよいかもしれない。しかし次の二つの情報については言及しておくべきだろう。第一に1958年3月26日の『ル・ヌヴェリスト』第三面に掲載された記事である。見出しは「ジャック・ステファン・アレクシへの公開書簡」となっており、論争を目にした投稿者フェルナン・アリックス・ロワによって、この論争に備わっていた一側面、すなわちアレクシの提示した階級闘争を一時的に棚上げることが統一戦線を築くために必要であるという論点が掘り起こされている。ロワは明らかにマルクス主義の文脈における階級闘争の意味を捉えずに自然法則に基づいて論を展開しているため、アレクシから返答を受けることはなかった。その一方で、国民を中心に置いて考える必要性と社会的勢力が取り組むべき課題、すなわちハイチを「巨大な労働建設場」とすることが強調されている。数日間におよぶ、激しく、徐々に抽象性を増したやり取りを受けて、編集部は新聞読者からの投稿を載せることで議論の本質、すなわちハイチにおいて生産するという課題を思い起こさせようとしたのだろう。これにより論争の出発点、アフリカだけを参照項とすることの是非にもう一度光が当たっている。

第二に、アントニー・レスペス[14]がドゥペストルに宛てた二通の書簡である。この書簡はL・ペアンによって発見され、彼の著書[15]に再録されている(Péan 2007 : 431-438)。書簡の内容は極めて批判的なものである。[次に引用する]一通目は、おそらく1958年3月末に書かれたものであり、過去に実際何が起きていたかを知らないままにドゥペストルが思想的彷徨をみせていることを咎めている。

さて、貴方はヨーロッパから帰国したばかりの、19歳だ。なぜならその歳でこの国を離れたのだから。そして貴方は指図しているのだ。誰に? 15歳の若者たちにか? だが今は1946年ではないんだ、ドゥペストルさん。そこからいままでに何百という遺骸が積み重なった。この国は、失業にあえぎ、何百万人も失った。あっという間にこの国は白髪混じりになった。不幸の渦中というのはそういうものだ。涙にくれる祖国というこの家で、少しの間黙して悼むだけの良識はもてないか? 灰はまだ空に舞っているんだ、ドゥペストルさん。それなのに貴方は、あの悲劇から利を得ようと躍起になっているように見える。

レスペスはアレクシとの論争にも言及している。[それによると、]若者を動員しようとする両者の姿勢は、これほど危険が迫る時代にあっては、ハイチ国内の左派の不信を招く。まずは1946年の革命に著しく欠けていたものについて自己批判するところから始めるべきである。

レスペスの二通目の書簡は4月15日付のものであるが、その内容はさらにラディカルなものになっている。まずハイチのインテリ同士の〈おふざけ〉が糾弾され、彼らは〈外に立たされた〉民衆、すなわち農民やプロレタリアートのあまりに悲惨な状態を顧みているようにはまったく見えないと述べられる。

この国は大きな嘘の上に成り立っている。いや、むしろこの国自体が嘘なのだ。読み書きのできる者のうち99%は嘘をついている。自分に対しても他者に対しても何かをでっち上げている。その他者とはこの土地に住まう300万人の肉体労働者のことだ。300万の影のことだ。この病理は根深い。なぜならこの嘘の裏側を見抜ける者はおらず、見抜こうとする者もいないからだ。誰一人として明晰な視線を持つ者がいないのだ。

これはまさに、セゼールが1944年の自身のハイチ訪問について、2005年のフランソワーズ・ヴェルジェ(Nègre je suis, nègre je resterai, 2005を参照せよ)との対談で語るなかで説明していることである。セゼールのこの証言は大きく注目されたが、基本的にハイチの知識人の間では評価されていない。[以下の]セゼールの発言はレスペスの言葉を裏付ける。「知識人は〈知識人らしさインテレクチュアリスム〉のことだけを考え、詩を書き、問題に対していちいち立場をとっていた。だがそれは民衆とはまったく無関係であったのだ。それこそ悲劇的だった…」。

レスペスはまさにこのことを念頭に置いている。アレクシとドゥペストルの論争は、とりわけ罵倒が始まってからというもの、この路線にはまってしまった。論争の目的が意味を失ってしまったのである。

ところがドゥペストルさん、この国を飲み込み、破滅に追いやっているその嘘に、無知ゆえにというわけでもなく、良心の呵責がありながら、罪深い思考によって、貴方自身も足を踏み入れてしまったのではあるまいか。そこに貴方は腰までどっぷり浸かっており、水位はなおも上昇しているのだ。[…]貧者の叫びが貴方の息の根を止めてしまうぞ、ドゥペストルさん!

この指摘は厳しいものである。[レスペスという、]ジャック・ルーマン亡き後のハイチで参照項とされた、武闘派活動家であり知識人でもある人物からの指摘である。レスペスはアレクシに対してもドゥペストルに対しても厳しい態度をとっているが、特に自らの書簡の宛先であるドゥペストルに対しては、真に政治的な精神をまったくもって欠いていたと批判している。

貴方にとって、この国の主たる問題とは知識人のそれであり、観念のそれであり、文化、とりわけアフリカ文化のそれであったのだ。なんという嘲りだろう!

レスペスが想起させているのは、革命闘争の出発点は自由な労働組合運動という「民主主義の基軸」にあるという、至極当然の事実である。

歴史というぼろ布を素材に、新たなる何かを作り出さねばならない。もしそこにあるのが大統領たちの争いであるとしても、消えずに残った歴史あるバックギャモンのようなものであるとしても、民衆からの見解が欠けているが故にアグレッシブで不毛で血なまぐさくなってしまった終わりのない対話であるとしても、今回ばかりは世代間の問題、若者たちを決定的に方向づける問題を扱わねばならないのだ。

レスペスはドゥペストルの思考が権威主義的(スターリニズム的とも言えるだろうか? )な方へ逸れていっていることを批判している。

いずれにせよ、それはどうやら貴方が変質させている社会主義の道筋ではない。社会主義は左派のトントン・マクート[訳註18]ではないのだから。社会主義とは世界の方程式でもあり、ハイチの地の方程式であると同時に、長い時間をかけて、代償と苦悩を最小限に抑えながら、すべての人のために築き上げていくものなのだ。

レスペスは、その歴史のかくも厳しい幕開けからずっと傷を負ってきた国を癒すために、どれほどの手腕が必要とされるかについても強調している。

病人の枕元に寄り添う医師は、高度な能力と優れた機転と相当に秀でた科学の知見を備えていなければならない。そうでなければ、何もかもすっかり諦めて、盲目のこの国が、悲惨と死に際の苦痛と恥辱に震えながらその声を探すのをただ見ているしかないのだ。

太陽に向かって進むことすら困難な盲目のオリオンと化した国家の様子は、すでに崩壊しつつあるものを先取りしており、レスペスはそこに、幼少期に感じるパニックを思い起こさせ、尚且つおそらくは対抗手段のない絶対的な危険を感じ取っている。「そして苦しむ民衆は夜の闇のなかに取り残され、その耳に入ってくるのはクロック・ミタンの声と足音だけだったのだ」。

これは容赦のない指摘であり、この手紙の受取人であるドゥペストルに衝撃を与えたに違いない。1959年3月、ドゥペストルはハイチを離れキューバへ渡ることとなる。

 

14. 緊迫する情勢

アレクシとドゥペストルによる投稿が終了してまもなく、ポルトープランスでも地方部でも情勢が緊迫していく。その様子は、控えめながら『ル・ヌヴェリスト』の記事からもうかがえる。たとえば1958年6月30日、先に言及したセラファン議員が国家の安全を脅かしたとして軍事委員会によって裁かれたと報じられている。7月22日、ジョルジュ・プティ、アルベール・オセナド、ダニエル・アルティが同様の容疑で起訴されている。7月28日、29日にはクーデター未遂事件が発生した。これを受けて戒厳令が布告される。こうして国全体が鉛のマントに覆われるかのように抑圧的体制の下に置かれることとなる。8月29日の『ル・ヌヴェリスト』上には、先の大統領候補であり、キューバ大使館に避難していたクレマン・ジュメルの兄弟二人、デュカスおよびシャルル・ジュメルの処刑を知らせる簡潔かつ虚偽の多い公式声明が転載されている。1959年4月13日には署名のない記事が掲載され、怒りの滲む調子で、クレマン・ジュメルの死と、彼の葬送の最中、遺体が国軍兵士数名に奪われたと報じられている。

 

おわりに

この論争においてまず配慮されるべきだったのは、ラディカルな暴力の論と死を呼び込む論法から脱却しようという苛烈で不器用な、そしてあまりに早く放棄されてしまった課題であった[16]。二人の論客は、議論の範囲を確定させることも、政治の言葉をナショナリズムの路線から引き離すこともできなかった。デュヴァリエにより権力者のディスクールとして導入された、レトリックの暴力の上に張られた罠がその試みを覆い尽くしてしまったのである。ドゥペストルはその後、約一年に及ぶ厳しい監視を受けた後、完全にハイチから離れることになる。後年、1980年代になると幼少期の自分だけの領域を神話にし、とりわけ〈女性であり庭であるもの〉のイメージを作り出している。一方、アレクシは『まばたきの間に』(1959)の続編にあたる『アブサンの星』(2017)の執筆を始めたようだが、この作品は断片のまま遺稿として残されている。しかし異なる形で1958年に勢力を落としたにも関わらず、両者の政治思想には著しい近似性を示す側面がある。それは中国との親和性とも呼びうるものである。

1959年1月初頭、両者を接近させる大きな出来事が発生した。キューバにおいてバティスタ政権が倒れたのである。「カストロの勝利はあらゆる希望に再び火を灯したのだ」(Séonnet 1983 : 141)。アレクシは1958年にソ連作家同盟第30回大会に招かれモスクワを訪問した。さらに、その機会に中国へも足を延ばしている。本命の目的は政治と演劇の分野での接触を図ることであった。ポルトープランスに帰国すると、アレクシは1959年10月17日に正式に発足する〈国民協調党〉の結成に着手する。同党の武闘派活動家はさまざまな農民グループに働きかけた。勿論この間アレクシは常に監視の対象となっている。1960年11月、今度は共産党・労働党会議に参加するため再びモスクワを訪れる。M.セオネによると彼の旅程には不確かな点がある。アレクシはモスクワから北京へ渡ったのか、それとも北京からモスクワに向かったのか?これは些末な問題ではない。というのもアレクシはハイチ上陸の準備として多額の資金援助を受けていたのだが、その出所は未だ明らかになっていないのである。さらにアレクシは旅の一部をベトナムの指導者ホー・チ・ミンと共にしている。モスクワでの会議では、中国とソ連それぞれの指導層に向けて、軋轢を乗り越え対立の激化を避けようと呼びかけた。ドゥペストルはこの場でアレクシとの最後の対面を果たすこととなる。再会した二人には語り合うべき多くのことがあっただろう。その後、アレクシはキューバへ渡り、そこから四名の同志と共に1961年4月中旬、モスクワ滞在中からすでに多数の警告を受けていたにもかかわらず、ハイチに向けて出航した。彼らが上陸することはすでにハイチ軍に知られていた。一方、ドゥペストルは1960年から中国に滞在し、上海を経て北京に至る。1961年2月から5月にかけてはハノイに移動してホー・チ・ミンと行動を共にするなかで、共産主義運動の統一を訴えたアレクシの演説がどれほど聴衆に強い印象を与えたか耳にする。このことから暫定的に導きうる結論は、アレクシとドゥペストルはハイチを離れない限り、あるいは一時的にでも国の外に出ない限り、ハイチ解放のための手段を共に模索することはできなかったのでないかというものである。それは両者の対立に潜む最大の逆説である。最後に指摘しておくべきなのは、中国という空間が、ドゥペストルの想像域に深い畝溝[訳註19]を残すことになったという点である。

 

参考文献[17]

[原文にある通りの順で記載する。]

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Michel Séonnet, Jacques Stephen Alexis ou Le Voyage vers la lune de la belle amour humaine, Toulouse, Éd. Pierres hérétiques, 1983.

 

原著

Yves Chemla, « D’une obscure polémique », Il Tolomeo, vol. 21, 2019, p.69-101.

 

訳注内参考文献

[訳注内で引用した文献のみを記載する。]

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Frankétienne et Bernard Hadjadj, Frankétienne. L’universel haïtien : Entretiens. Paris, Riveneuve, 2012.

 

謝辞

本訳稿執筆にあたって、原著者であるイヴ・シェムラ氏に快く翻訳の許可を頂戴しました。ここに謝意を表します。また、訳文の確認の際には東京大学言語情報科学専攻教授、渡邊淳也先生にご助力、ご助言を賜りました。あわせて、感謝申し上げます。

Notes

  1. [1]

    本稿では以下を翻訳する。Yves Chemla, « D’une obscure polémique », Il Tolomeo, vol. 21, 2019, p.69-101. なお原文冒頭頁にある論文概略は訳出しなかった。

  2. [2]

    ルネ・ドゥペストルという氏名の表記については、原注3および訳注2で説明している。

  3. [3]

    2020年に松井裕史氏による邦訳が発表されている。ジャック・ルーマン、松井裕史訳『朝露の主たち』作品社、二〇二〇年。他方、プリス=マルスの著作についてはまだ日本語に翻訳されていないため、ここでは訳者による訳題を付している。

  4. [4]

    アレクシやドゥペストルに後続する世代の詩人フランケチエンヌによる証言として、次の文献の130頁を参照されたい。Frankétienne et Bernard Hadjadj, Frankétienne : l’universel haïtien : Entretiens, Paris, Riveneuve, 2012.

  5. [訳註1]

    Port-au-Prince。現代ハイチ・クレオール語(kreyòl ayisyen)ではPòtoprensと表記される。本稿では仏語の発音で訳出した。

  6. [訳註2]

    原注3で示されるように、ルネ・ドゥペストルの綴りには媒体と言語によって揺れが見られる。本稿では邦訳されている作品での表記に従って「ドゥペストル」と表記することとする。しかしハイチで書かれた文献の表記法、あるいはハイチ・クレオール語の発音に基づくならば、「デペストル」の方がより適切と考えられる。

  7. [1]

    https:/ile-en-ile.org/chronologie-de-rene-Dépestre/ (2018年11月12日閲覧)。[2025年7月現在、アクセス可能なリンクは次のものに変更されている。https://ile-en-ile.org/chronologie-de-rene-depestre/]

  8. [訳註3]

    Le Nouvellisteは、1898年に創刊された日刊紙Le Matinを前身として発刊され、当時多くの新聞が短命に終わっていくなか、世紀を越えて存続していった新聞である。現在もハイチで最も一般的に読まれる、「読者の生活に密着した」新聞として親しまれている。詳細についてはLe Nouvelliste公式ウェブサイト(https://lenouvelliste.com/a-propos)上にある沿革を参照されたい。

  9. [訳註4]

    La Bibliothèque numérique de la Caraïbeの訳語として、〈カリブ海デジタルライブラリー〉を採用した。原文ではこの箇所以降、dLOCと略称されているが、これは英語のDigital Library of the Caribbeanに由来する略号である。

  10. [2]

    レズリー・ペアン氏はこの大著に収められたレスペスの二通の書簡について、著者の質問に快く応じてくれた。ここに記して謝意を表する。[本稿では二次資料に分類し、Leslie Péanの氏名をL.ペアンと訳出している。]

  11. [訳註5]

    La Société Africaine de Cultureの訳語として〈アフリカ文化協会〉を採用した。本稿ではこの箇所以降、SACの略号で示している。

  12. [3]

    詩人ドゥペストルの綴りには顕著な揺れが見られる。ほとんどの仏語文献ではDépestreと綴られるが[文脈から考えて、Depestreと綴られる、の誤植である。仏語文献では〈ドゥペストル〉、ハイチの文献、ハイチ・クレオール語では〈デペストル〉と捉えるのがよいだろう]、ハイチで書かれた文献、特に1946年から1959年にかけての報道においてはreference.info/notables/getperson.php?personID=I126&tree=ecrivains)にあるハイチの著名人6400選のなかではRené Depestreと記されている。本稿ではこの綴りを採用する。[サイトリンクについては、アクセスこそ可能であるものの、2025年7月現在、内容が消去された状態になっている。]

  13. [訳註6]

    Compère, Général Soleilは、2025年7月現在までに唯一邦訳されているアレクシの小説である。詳細は以下の作品を参照されたい。ジ・エス・アレクシ『太陽将軍』〈上〉〈下〉、里見三吉訳、新日本出版社、一九六五年。翻訳者である里見氏は、ジャック・ステファン・アレクシの略記J. S. Alexisを日本語読みで訳出したようである。

  14. [4]

    Dorsinville(2006 : 483)を参照せよ。あわせて、Francis-Joachim Royの小説Les Chiens (2019) にも注目されたい。そこにおいてアレクシはGeorges-Jacques Darcourtという人物を通して描き出されている。この小説は1961年にRobert Laffontにより初版が刊行されたのであるが、この時、アレクシの消息はまだ不明の状態であった。

  15. [訳註7]

    ムーラン・ダンデ(Moulin d’Andé)はパリから100kmほど離れたVal de Reuilに位置し、2025年現在も創作家のレジデンスとして開かれているようである。1956年の〈第一回黒人世界作家芸術家会議〉開催時には、この会議の参加者がイベントを催す場としても使用された。後述されるように、ドゥペストルも一時ここに身を寄せていた。詳細については、ムーラン・ダンデの公式サイト(https://moulinande.com/ceci-presentation/)を参照されたい。

  16. [訳註8]

    原題はRossignol mangé corossolである。これはハイチ・クレオール語であるが、mangéは仏語のmangerにあたる動詞の原形である。動作動詞の場合、時制を表す機能辞が付かなければ、過去時制として解釈される。他方、corossalは現代のハイチ・クレオール語の正書法ではkowosolと表記されるはずだが、当時は正書法が定まっていなかったことから、仏語に寄った表記となっていると考えられる。また、アレクシは自身の小説においてもクレオール語の語彙を用いるが、その際の綴りは仏語に近いものを採用する作家であるため、なおのことである。

  17. [訳註9]

    原題Bonsoir Tendresseに訳者による訳題を付した。この著作に限らず、未邦訳のアレクシ作品も含め、本稿中で言及される、まだ日本語に翻訳されていない作品については訳者による訳題を付す。

  18. [5]

    ジェラール・ブロンクール(1926-2018)。1946年、印刷工であった彼はドゥペストルとアレクシとともに革命の発端となる事件を起こし、その結果、時の大統領エリー・レスコーは辞任に追い込まれた。軍事法廷によって死刑宣告を受けたブロンクールであったが、国外追放を条件に極刑は免れた。フランスに亡命して後は写真家となり、数十万点にのぼる写真作品の他、詩や物語も遺した。

  19. [訳註10]

    英語での発音に即した〈ヴードゥ〉のほうが日本語では馴染みがあるかもしれないが、仏語での綴りはvaudouであり、ハイチ・クレオール語でもvodouと記されることがほとんどであるため、本稿では〈ヴォドゥ〉と訳出している。

  20. [訳註11]

    ノワリスト運動あるいはノワリスム(noirisme)とは、米国による占領(1915-1934)への反抗を契機として生まれた潮流である。Smith(2009)においては「黒人ナショナリスム」と形容されている。ハイチ社会ではフランス的価値観への〈同化〉こそ、ハイチ本来の発展を妨げてきたものであるという見方が根強くあったために、ノワリスムの言説において、ハイチの対立項に置かれるのは米国よりもフランスである。Smithによると、ノワリスムは文明国なるものの条件としてヨーロッパ的な政治制度を挙げることを拒否し、ハイチ統治のモデルをアフリカにおける政治構造に見出そうとする。その一方で、「ノワリスムの根底には権威主義的かつ排他的な国家の構築を望む強い反リベラル的要素が存在していた」(26)。1940年代に入るとノワリスムの言説は明確な形で影響力をもつようになる。ノワリスムの代表格とも言うべき集団が、1930年代後半に創刊された季刊誌Les Griotsの編集メンバーであり、その内の一人がフランソワ・デュヴァリエであった。

  21. [訳註12]

    「ハイチにおいてムラート(mulatto, mulatto)は一般的に白人と黒人の混血を意味する語として用いられるが、他にもgriffe, grimelle, grimault, brun, marabou, clairなど、肌の色の明るい人々に対して用いられるさまざまなカテゴリーが存在するため、これらの語はしばしば誤用されてきた。[中略]肌の色が明るい人物を「ムラート」と呼ぶことは、その身体的特徴に着目した言及ではあるものの、それが必ずしも社会的地位を意味するとは限らない。」(Smith 2009 : 198)。これに対して、クレオール語milatは、肌の色のみならず階級的属性をも含意する。この箇所において黒人(noir)に対置されているムラート(mulâtre)は、milatに対応し、肌の色が明るく、かつ一定の社会階級に属する人物を意味している。

  22. [訳註13]

    フランソワ・デュヴァリエ(François Duvalier, 1907-1971)は、特にイチゴ種(pian)の治療と対処法普及活動を主導した医師としても知られていた。

  23. [訳註14]

    ドミニカ共和国第36代、39代大統領ラファエル・トルヒーヨ(Rafael Leónidas Trujillo Molina, 1891-1961)のことを指している。彼は1937年に国境の街で起こった虐殺(所謂〈パセリの虐殺〉)に際する意思決定を行った大統領として知られ、この事件を極点として、ハイチとドミニカ共和国の二国間関係は最悪の状態が恒常化していた。

  24. [訳註15]

    デュヴァリエ統治を象徴する旗である。Smithによると、黒と赤という色の選択は「ナショナル・カラーは黒と赤とする」(1)という1805年のハイチ憲法の記述に関連しており、この「真正なるハイチの色」(187)に飾られた旗と自分自身が「一つにして不可分」(同頁)であると示しつつ、デュヴァリエは自らを終身大統領と宣言した。

  25. [訳註16]

    アンディジェニスム(Indigènisme)とは1920年代に始まった運動であり、その射程は思想、政治、文化、詩学、文学、民俗学、社会学など、極めて広範に及ぶ。ハイチ国内のみならず、ネグリチュードを始めとする仏語圏の思想、運動にも影響を与えた。運動の中核となったのは『おじさんはかく語りき』の筆者プリス=マルスであるが、アンディジェニストと呼ばれる文筆家には、ジャック・ルーマンを始めとして、Revue Indigèneに寄稿していた人物が多い。アンディジェニスムを単一の定義に収めるのは困難であるが、この潮流を端的に言い表そうとするならば、〈ハイチ文化に見出されるアフリカ的起源への回帰〉とまとめることができよう。ハイチ・クレオール語に威信が与えられ、ヴォドゥとキリスト教の習合が認められるようになるなど、大きな影響があった。

  26. [6]

    ピエール・ヴィアラ(1922-2013)。コメディアンであり、アリアンス・フランセーズ名義で行った巡業で人気を博した。彼のリサイタルにはアレクシの作品も取り入れられていた(ヴィアラ基金、http://earchives.vaucluse.fr/document/FRAD084_IR0001689#tt2-19)。

  27. [7]

    ジャン・マルスナック(1913-1984)。詩人、ジャーナリストであり、フランス共産党員でもあり、アラゴンと親しかった。パブロ・ネルーダの作品の翻訳している。[1958年]9月29日発行の『レ・レットル・フランセーズ』誌に掲載された記事において、SACハイチ支部第一回会合について報じ、あわせてこれに敬意を表している。

  28. [訳註17]

    シャルル・モーラス(Charles Maurras, 1868-1952)に由来する語彙である。20世紀前半ハイチの知識人たちの思考とモーラス主義の呼応関係については以下を参照されたい。Chelsea Stieber, « Camelots du roi ou rouges: radicalization in early twentieth century Haitian periodicals », Contemporary French civilization, 45, p. 47-69.

  29. [8]

    Dash(1998 : 74-77)を参照せよ。ルネ・ピキオン自身も多くの知識人と同様に、ファシズムの誘惑に屈し、それがデュヴァリエ統治のモデルの一つとなる。

  30. [9]

    アレクシによる1958年3月13日の記事には曖昧なところがあり、ドゥペストルがその告発をでっち上げだとして退けたのか、その会談の結果がハイチの内政に対する彼の見解に何ら影響しなかっただけなのかを判断するのは難しい。しかしながらドゥペストルの妻エディット・ゴンボスがこの夕食会についてフロランス・アレクシに証言しており、後者もまた本稿筆者に対してこの私的な会談の存在を肯定した。いずれにせよドゥペストルはL-F・ホフマンに対して、1958年2月にデュヴァリエから外務省文化長官のポストを打診されたと語っている。

  31. [10]

    アンドレ・ヴルセムル(1899-1984)。作家、ジャーナリスト。長年に亘って日刊紙L’Humanitéの社説を担当した。

  32. [11]

    《アンディジェニスト》のことを指している。

  33. [12]

    以下の作品のことを指している。Stéphen Alexis, Le Nègre masqué, 1933.

  34. [13]

    ニコラ・ヴァプツァロフ(1909-1942)。ブルガリアの詩人。機械工として働き、作品はごくわずかしか残しておらず、生前に出版したのはLes Chants des moteurs一冊のみであった。それにもかかわらず、ブルガリアにおける最も重要な詩人の一人として見做されている。共産主義活動家でもあった彼は、ドイツ軍およびブルガリア国内の対ド協力勢力と闘った。逮捕され拷問を受けた後裁判にかけられ、裁判と同日に銃殺刑に処された。1966年、ピエール・セゲルスが首都ソフィアにて彼の詩を数点翻訳、出版している。序文は特異な経歴をもつ作家であり、知識人であり、フランス共産党の指導者でもあったジャン・カナパによって書かれている。この書籍は以下のウェブサイトで閲覧可能である。https://www.notesdumontroyal.com/document/430a/pdf (2019-05-26)[原文ではNicolas Vatzarovと綴られているが、文脈から考えてNikola Vaptsarov(Никола Вапцаров)のことであり、日本語では〈ヴァプツァロフ〉と表記すべきであると判断した。また、記載されているリンクは2025年7月現在、アクセスこそ可能であるものの、内容が消去された状態になっている。]

  35. [14]

    アントニー・レスペス(1907-1978)。ハイチの詩人、小説家、ジャーナリスト、政治家。1946年に発足した人民社会党の創設者であり、その作品としてはLes Semences de la colèreが有名である。

  36. [15]

    L・ペアン氏は、かつて人民社会党員であった人物から託されたこれらの書簡について、本稿のために情報を提供してくれた。

  37. [訳註18]

    ハイチ・クレオール語ではtonton makoutと綴る。デュヴァリエ政権下で大統領の直轄下に置かれた私兵組織、秘密警察である。統治に反抗する人物に対する密告の受付、逮捕および拘束、拷問、処刑を行っていた。

  38. [16]

    たとえば、Corten (2000)を参照せよ。「悪魔化とは、社会を構成している人物を文字通り、あるいは比喩的に、和解することが本質的に不可能であり、かつこれをすることは許されない存在としての悪の化身へと変換することである。したがって悪魔化とは必然的に、特定の手続きに関するルールが守られる限り、討論は可能かつ必要であると見做す、民主主義の手続きに関する理念を必然的に妨げるものである」(44)。

  39. [訳註19]

    sillonの訳語として〈畝溝〉を採用した。〈詩行〉を意味する仏語彙versが、「回る」を意味するラテン語のvertereに由来しており、元は「畝の端で鋤を返す運動を指し、やがては畝そのものを指すようになり、そして文章の〈行〉を指すようになり、最終的に詩行を指すようになった」(Aquien 2014 : 9)ことを考えると、この箇所における〈畝溝〉は、記憶のなかの刻印のようなものだけでなく、その後のドゥペストルの詩作への影響も暗示しているとも考えられる。

  40. [17]

    注記。この課題を可能な限り慎重に取り扱うために、多岐に亘る二次資料を参照した。こうした資料は、直接的にこの一件や、この時代を扱ってはいないものの、『ル・ヌヴェリスト』上ではほとんどうかがい知ることのできない当時の雰囲気を再構築する上で必要不可欠であった。この課題に関する考察を深める上で重要な証言者がいたが、すでに故人である。その彼、ジェラール・ブランクールと重ねた対話は、論点を明らかにするための手がかりとなった。ここに謝意を表する。なお本稿に示す参考文献は、本文中で参照されているものに限る。

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「ある知られざる論争について」 浅野 千咲 訳、 『Résonances』第16号、2025年、53-86ページ、URL : https://resonances.jp/16/une-obscure-polemique/。(2025年11月16日閲覧)

翻訳者

所属:東京大学総合文化研究科言語情報科学専攻博士課程
留学・在学研究歴:モントリオール大学仏語文学科(2023年~)